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遥乃陽 diary

日々のモノトニィとバラエティ

世の中は感動と憂いに満ちている。シックスセンスが欲しい!

べちこ焼きって三色の氷室饅頭と似てるかも (海羽空市の焼き菓子と金沢市伝統の暑気払い饅頭)

先日観ていたアニメ「それでも町は廻っている」のエピソード九番地は、食べた御菓子が凄く美味しくて製造元まで買占めの大人買いに行こうとするストーリーでした。

その御菓子の名は『べちこ焼き』、カラフルな見た目で直ぐに連想したのが、湯涌温泉へ行く度に買って来ていた三色の『氷室饅頭』でした。

そっくりな外観ではないのですが、カラーリングのイメージがダブりまして、オーバーラップのトラウマを避ける為に着色画像を作ってみました。

群青色はさすがに食欲が失せそうなので、青紫にしましたが、それでも……。

ベースが饅頭なので、中身は漉し餡をやめて、しっとりクッキーの抹茶味をサンドにした焼き菓子とのハイブリッドにしてみたです。

これで一応は焼き菓子風味になると思うのですが、なんか、『べちこ焼き』っぽいよりも『秀美乱/ホビロン焼き』になっていまって、味は兎も角、全然買って貰えそうにないです。

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『べちこ焼き』の製造元は『毛利屋』です。

『毛利屋』が在る海羽空市の市外局番は047で、千葉県の大半が該当するのですが、千葉県に海羽空市は存在しません。

お気に入りの『べちこ焼き』が『毛利屋』の店仕舞いで無くなると知ったタイムリサーチャーは、大人買いした『べちこ焼き』を現在を含めた過去に配り撒いて『毛利屋』が存続してくれるかを検証した、時空干渉するシュタインズゲートみたいにタイムパラドックスな、三百年も未来のSFでした。

結果は大人気になって多くの菓子メーカーが製造していました。

『べちこ焼き』は大人気に化けてましたが、過去から派生する様々な事柄は重大なバタフライ効果の結果を招いていそうな気がします。

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なので、『風ヶ丘飛鳥』先生の奇想天外ミステリー小説、『シャッフル都市』を文庫本で読んでみたくなりましたね。

あと、『門石梅和』先生の荒唐無稽小説、『雲丹飛行船』も。

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PS:

氷室饅頭:

金沢市では加賀藩の頃から、陰暦六月一日を氷室(ひむろ)の朔日(ついたち)と言い、『氷室饅頭』を食べる風習が有ります。

この『氷室饅頭』の起こりは、加賀藩藩主の前田家が天正12年6月朔日(1584年7月1日)に金沢城内で

京都宮中の賜氷の節に倣って始めた吉例のお祝いの氷の催しの雪を模して、享保年間(1716年~1724年)に片町の生菓子屋、道願屋彦兵衛が創案したされています。

吉例とは陰暦六月朔日で、夏の正月の事です。

新しい年を迎えた元旦の冬の正月に、前半を無事に過ごせた感謝と後半の平安と稔りを願う夏の正月。

暑気を払い、気持ちを新たにする後半へのリセットで、スターティング・オーヴァーです。

冬に雪の下で過ごした麦を用いる氷室饅頭は夏負けしない無病息災を願う縁起もので、初めは萬/万人の頭へ出世するいう意味も込めて、「氷室萬頭」として売り出されたそうです。

暑気当たりを防ぐ願掛けに食べる氷室饅頭は、当初は献上する雪の白さに擬えた白色だけでしたが、今は花見団子と同じような彩りの三色を拵えている老舗も在ります。

蒸しても余りふっくらとしない麦饅頭だった氷室饅頭は現在、酒種を入れて、薄皮でふっくらしてモチモチと香り良く、劣化が遅い酒饅頭になりました。

丸い饅頭の形も配膳に盛られた祝いの氷を模していると考えます。

献上氷の道中の無事を祈願して初夏に神社へ奉納する雪盛りは、形が定まらないまま直ぐに融けてしまうでしょうし、まさか、茶碗に白米や掻き氷のように盛られてはいなかったでしょう。

取り出した雪の状態は、夏でも高山の林道の沢陰に砂礫や枯葉まみれで残っている万年雪に近いですが、もっと、一度融け掛けて再び固まった真冬の屋根雪のようで、綺麗な白さです。

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徳川への献上氷の雪:

江戸の将軍様への献上氷については、江戸の文献で確認できる一番古い年代記録に、寛政11年(1799年)に加賀藩江戸上屋敷の氷室の雪が届けられたと有ります。

江戸の文献には加賀藩の献上氷を「六つの花(雪の結晶)、五つの花(前田家の紋章の梅の花)の御献上」など雅な川柳で、多くの記述が残っていますが、加賀藩の文献には記載が一つも有りません。

これは金沢城から氷室の雪が直接、江戸城へ届けられたのではなく、金沢と同じように六月朔日の祝いを催す江戸の加賀藩邸へ送られて、その一部を徳川へ献氷したからと考えます。

加賀藩邸の氷室は江戸に降り積もった雪を掃き集めて詰め、金沢から事前に届いた祝い用の雪を保存する

冷凍庫の役割をしていたのでしょう。

そして、六月朔日の前日辺りに献上されて江戸城の氷室へ収められたと思います。

この加賀藩邸の氷室へは、真冬の夜間に金沢から雪が運ばれたという説が有りますが、積雪する極寒の時期に日本アルプス地帯を通って行くなんて(東海道を通るにしても)、とても虚しくて無意味な気がします。

江戸屋敷の氷室を一杯にするなんて、どれだけの量を運んだんだよっていうか、運べたのかよ、ですわ。

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祝いの氷の運び屋:

氷室の雪を江戸へ運んだのは、金沢市内を流れる犀川の源流辺りに住む倉谷四ヶ村の衆でした。

そこは富山県との県境の地で、ブナオ峠を越せば五箇山の集落へ至ります。

倉谷には金山が在りました。

金、銀、銅、鉛を産出する倉谷金山は、文禄3年(1594年)から採掘が始められたと伝承記録が有りますが、古代越の国から栄えた北陸の地は、谷や沢や峰の岩石や露頭地層は全て探索し尽されて、採掘される以前から砂金採りが行われていたと推測します。

採掘量の激減で倉谷金山が正徳4年(1714年)に閉山して四ヶ村も衰亡した以降の倉谷の衆は、兼ねていた加賀藩の特殊業務に徹していたようです。

金銀の採掘で器用に坑道を掘り、金属工作をする倉谷の衆は、兵科だと工兵。

工兵を英語ではパイオニアやエンジニアと言い、その意図する所は特殊なプロの技能と技術を持つ人達が、アンダーな業務を熟す、加賀藩のお庭番で暗部だったんですね。

些細な事から外様筆頭の大大名の前田家を断絶取り潰して、所領を旗本や直参へ分け与えようと企む徳川幕府の隠密達と熾烈な闘いをしていたのかも知れません。

祝いの氷を速やかに運び、五箇山煙硝の製法を守り、金銀を採掘し、参勤交替のルートの安全の確保や、加賀藩要人の警護をする…… なんて、けっこう凄くて格好良いぞ、倉谷の百足衆です。

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雪を保存する氷室:

兼六園内にも氷室が在ったらしいとする古地図が有りますが、地形的に初夏まで雪がちゃんと保存できたいたか疑わしいですね。

もしかして、それは徳川へ献氷する真夏の雪の出所を、公儀から訊かれた時のダミー氷室なのか、城内の下級武士用だったのかも知れません。

天正12年(1584年)から金沢城玉泉院丸の南西の隅に氷室が設置された元禄5年(1692年)まで、倉谷四ヶ村が祝いの氷の献上したと記述が有りますから、山間の倉谷には氷室が有った事が分かります。

なので、後年の加賀藩江戸上屋敷へ運んだ雪は、倉谷か五箇山に設置された倉谷衆が管理する専用の氷室から切り出されたと考えられます。

運ばれる雪は長さ2m、巾1m、厚さ60cmくらいの大きさで、滅菌と保温に熊笹で幾重にも包んで桐の箱へ入れ、更に断熱と消毒にヒバの葉か、檜の鉋屑を敷き詰めた桐材の長持ちに入れてからも筵を重ね巻きして運ばれました。

三棹一組としていますから、江戸の藩邸へは徳川献上用と合わせて、少なくとも六つの桐の長持ちが送られたと思います。

発送の時期は峠の積雪が消える五月初め、江戸までの約500kmの距離は出来る限り最短で、間者と輸送の交替要員を兼ねてコース上に住み着いた倉谷衆が、整備して安全を確保した涼しい高地の日陰ばかりの道を、急ぎ24時間移動で四日間、藁束をクッションにして積まれた日除け付きの荷車を馬で引かせて行きました。

人里を離れた山間をアクシデント処理や警護や交替の要員を従えた荷車の列は、夜間に足許を照らす提灯の灯りで、遠方からは狐火の連なりのように見えた事でしょう。

氷室への雪詰めは1年の内で寒さが最も厳しい大寒の1月20日頃に降り積もった雪を使いますが、それは氷点下の寒さで雪の結晶がしっかり形成されて融け難いのと、乾燥した厳しい寒さに雑菌が混じり難いので、氷室で長期保存しても雪質が腐って黴るような事は無いからです。

フワフワサラサラの新雪を何トンも氷室へ運んで詰め固める作業を、幾人で行っていたのか分かりませんが、大変な重労働だったと思います。

冬の雪を夏まで保存する氷室は古代に大陸から伝わり、雪が積もり夏は猛暑になる地域では一般的な設備でした。

機械で製造する氷が売られ出す明治初期から廃れ始め、冷蔵庫が普及する昭和には無くなってしまいました。

それまでは、氷室の雪や氷が熱中症などの熱を冷まし、夏バテする身も心も癒していたのです。

六月朔日が過ぎると販売されて、夏の暑さに齧ったり、飲んだり、冷たさを楽しんだりと、身分に関係なく利用されていました。

雪の積もらない地方では貴重な真夏の氷でしたが、金沢では季節の風物で珍しくありませんでした。

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現在の氷室:

昭和30年代に一度途絶えました氷室は現在、湯涌温泉の年中行事の一つとして昭和61年(1986年)から復活しています。

現存して活用されているのは、日本中で湯涌温泉の観光用氷室だけらしいです。

毎年1月の最終日曜日に60トンもの雪が横4m縦6m深さ2.5mの氷室小屋の中へ入れられる雪詰めは、観光の御客さん達が大勢参加しています。
そして、6月30日に行われる氷室開きは、金沢の夏の風物詩として定着しており、大勢の観光客が訪れます。

それは藩政時代当時の衣装と作法で再現され、運び出された最初の氷の一部は献上氷室雪として地元湯涌の薬師堂へ奉納し、残りはお茶用の湯に足されて観光客に振舞われます。

(大寒の雪でも、現在は大気の状態や厳しい規制故に、そのまま食べれません)

また、加賀藩藩主だった前田家からは当主が徳川将軍家の末裔の方へ、氷室氷を贈る伝統が現在でも続いています。

(現在も陰暦の六月朔日に徳川家へ届けられている氷室氷は、湯涌の氷室からなのでしょうか? それとも前田家が何処かに保有する……)

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長者屋敷跡 不思議な形の軽石凝灰岩塊(石川県加賀市片野海岸の北端)

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小学校の五年生だったか、加賀の横穴式古墳群と那谷寺と片野浜の長者屋敷跡を見学する日帰りのバス遠足が有りました。

みんなで横穴を穴から穴へ駈け巡り、白き石山の岩窟を覘いたりした後に向かった片野の浜の遺跡は、その名称から時代劇で見たような寝殿造りや二の丸御殿の雅な建物跡で、さぞ豪快な豪族や海運で儲けた商人が海原を見ながら日々、贅沢三昧の宴をしていただろうと、期待にワクワクして砂浜をキュッキュッと鳴かせながら歩いて行きました。

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しかし、辿り着いた長者屋敷跡は、ウネウネニョキニョキした奇怪な岩の塊で、柱の礎石や朽ちた土台の一つも無く、全くの期待外れでガッカリ感の極みでした。f:id:shannon-wakky:20150418072758j:plain

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ここでも男の子らしく、上の松林まで登ったり、かくれんぼに鬼ごっこやタスケで遊び回って擦り傷だらけで帰ったのを覚えています。f:id:shannon-wakky:20150418072018j:plain

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このガッカリ感いっぱいの岩の塊は灰緑色の軽石凝灰岩で、現在から1500万年前の第三紀中新世の中頃に噴火した海底火山の火山灰や火砕流の噴煙の堆積で形成されています。

なので、火山の噴火に巻き込まれた木々の破片や様々な種類の石片が多く混ざっていて、見た目以上に表面は粗く、触ると痛いくらいです。

噴火した頃の生物の化石も見られる長者屋敷跡は、石川県の南端の江沼砂丘片野浜に在ります。f:id:shannon-wakky:20150418072933j:plain

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時化る海が間近まで迫る時以外は、波打ち際から30mほどのところに、幅200m、高さ10m、奥行きは……岩塊上の松林の中にも広がっていると思うのですが、体積した砂の土壌と生い茂る樹木で確認できませんでした。

北上する討伐の平家軍が陣を敷いた場所の平陣野と、快勝の南下を続ける木曽義仲が通った北陸道浜通り道が直ぐ近くなので、奈良時代の須恵器や土師器が出土した在ったらしき長者家が裕福に存続していれば、両軍を御もて成ししていた事でしょう。

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PS1:

長者屋敷跡の周りの砂は、崩れると地層を露にする断崖のようになります。

これは地質用語のラミナといわれる最小地層筋で、普通は砂丘の風溜まりに堆積した砂塚に見られるのですが、ここでは波に運ばれて来て海風に巻き上げられた砂が長者屋敷跡の岩塊にぶつかり、降り落ちて堆積しているのです。

風が舞う気象毎にミルフィーユのような層状になっています。

また、凝灰岩は珍しい岩石ではなくて耐火性・耐震性に優れた石材として多用されています。

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PS2:

長者屋敷跡にまつわる伝説

長者の名は牛首。

豪儀で侠気溢れる牛首長者は明るく爽快で、使用人や商売仲間や地元衆に慕われる楽しい人でした。

毎晩、宴会を催して賑やかに振舞っていました。

そんな牛首屋敷の近くの大沼には大蛇のような龍が孤独に棲み着いていて、寂しさに姿を淑やかな娘に変化させた龍は、夜な夜な宴へ出向いて戯れるうちに牛首と色恋沙汰になってしまい、長者屋敷で牛首に寄り添いながら楽しく幸せに暮らしました。

人と似て非なる龍の娘と暮らすようになった牛首は、それまで以上に商売が繁盛し、人付き合いも豊かになり、聡明で爽快な性格は更に逞しく豪快になって多大な人望を得ました。

繁栄が自分を優しく慕う娘だと気付いた牛首は、祝言を願って断られてしまいますが、生涯、嫁を娶らずに、泣きながら縋り付く娘に看取られるまで、終生、屋敷に住まわせて愛し続けました。

牛首の他界後に起きた戦乱で、物欲に心が歪み荒んでしまう人間達に嫌気が差し、屋敷の荒廃する様に堪えられなかった龍は、再び大沼に潜ってしまいした。

時折、乾燥して砂漠のようになった大地に降らす大雨の中を、牛首を懐かしむように一緒に暮らしていた長者屋敷跡へ、何度も、何度も、舞い降りるように飛ぶのを、長者屋敷跡の奇岩の下で雨宿りをする旅人が見掛けていましたが、それも今では、さっぱりと見る事は無くなりました。

大地の精を食べて水気を放つ龍は現在も、鴨の生け捕り猟が行われる大沼の水底深くに潜み棲み着いていて、豪儀で逞しくも優しい牛首のような人なりが来るのを待っているのかも知れません。

龍の化身の娘には脇に鱗が残っていて、上気すると暗闇や水中で怪しく光輝いていたそうな。

西暦700年代の奈良時代には、加賀の大聖寺辺りは湖沼だらけで、絶滅寸前の古生代から生き残った両生生物がいろいろ棲み着いていたかもです。f:id:shannon-wakky:20150418073118j:plainf:id:shannon-wakky:20150418073132j:plain

 

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PS3:

長者屋敷跡岩塊の上の樹海について

片野海水浴場から塩屋海水浴場までの、およそ4km長の緑地帯は、砂丘を植林で森林した国有林でした。

正式名称は橋立町側の加佐の岬一帯と合わせて、『加賀海岸自然休養林』です。

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緑地帯には、サイクリングロードと遊歩道が設けられています。

サイクリングロードはコンクリートタイルが敷き詰められて快適に走行できそうでしたが、飛び砂と樹木に埋もれかけた遊歩道は、寂しくて心細い状態になっています。

サイクリングロードの片野側起点は、車輌の侵入防止を兼ねた階段になっています。

(塩屋側起点は未確認)

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自然休養林とは、国民の健康保全と休養の為に指定した開放されている国有林です。

自然休養林内では森林保護の為、指定場所以外での焚き火や炊爨、キャンプ、植物の伐採や岩石の採取は禁止されています。

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長者屋敷跡岩塊の上にも堆積した砂地に育った樹木が生い茂っていました。

長者屋敷跡上へ至るサイクリングロードや遊歩道から見る限りでは、軽石凝灰岩の露頭は見付かりませんでした。

片野側起点から長者屋敷跡上までは、考えていたよりも距離が有って、途中のサイクリングロードの休息場所から感を頼りに遊歩道を進み、道が無くなっても藪を分け入って、どうにか辿り着けました。

(長者屋敷跡方向とか、案内表示は無くて、方向感覚が鈍いと迷子になりそうな樹海です)

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真冬(1月31日)の荒波が長者屋敷跡間際まで寄せているのを見て、十数年前の冬に来て砂浜を歩いた時も同じような状態に、長者屋敷跡へ近付き難かったのを思い出しました。

ですが、夏の砂浜でも小学生の頃に比べて、ずっと狭くなったと思います。f:id:shannon-wakky:20160305200034j:plainf:id:shannon-wakky:20160305200213j:plain

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大野湊食堂 『しあわせのかおり』の小上海飯店が再び……(石川県金沢市大野4丁目125)

映画『しあわせのかおり 幸福的馨香/シンフー・ダ・シンシャン』のメイン舞台の『小上海飯店』として2008年にロケに使用された以後は、ずっと空き家になっていた店舗で、『大野湊食堂/おおのみなとしょくどう』が2014年11月1日から新たにオープンしています。

映画の『小上海飯店』が実に好いムードでしたので、同じような料理店で営業をして欲しいと願っていましたから、オープンした『大野湊食堂』は正に『しあわせのかおり再生計画』って感じで嬉しいです。

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『大野湊食堂』を知ったのは、一時帰国毎に健康検診している町医者の待合室で見ていた、グルメと観光をメインに地元の北陸三県のトレンディを紹介する月刊誌『金澤』2015年1月号の記事からで、早々に春節帰国休暇の終わりが迫る二月下旬の土曜日、妻と二人でランチを食べに行って来ました。

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オーダーしたのは、大野醤油ラーメン二つにチャーハンと蒸しギョーザ。

炒めてパラパラさが楽しいチャーハンと、蒸し餃子のツケダレがピリカラの本場の味で美味しいです。

いっしょに食べた妻は、大野醤油ラーメンが美味しいと気に入っていました。

懐かしいラーメンの味で、シャーシューの旨味が堪らなかったです。

セルフサービスの無料で提供している数種類の御惣菜も美味しくいただきました。

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映画の藤竜也が演じるオーナー料理人の寡黙で頑固な王慶国(ワン・チェングォ)と違い、店主の趙信來(ちょう/ジャオ・シンライ)さんは、明るく人懐っこい感じの方です。

中華料理のバックグラウンドが有る方で、二つ有る中華の予約コースを次回帰国時に食べに行きたいと考えています。

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映画の重要なアイテムになった隠し味に紹興酒を用いた蟹シューマイや、ラストオーダーのトマト卵炒めがコースの選択メニューとして加わえていただけたら、楽しいですし、そして、最低でも3年以上熟成させないと、美味しくならないという紹興酒も、紹興の町の『紹興老酒』を3年モノ、8年モノ、20年モノ、23年モノで飲めれば、更に幸せだと思うのです。

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『小上海飯店』の建物は、高校の弓道同好会のトレーニングの帰路のランニングコース途中に在って、1971年から知っていました。

当時は河口の『おおの大橋』は無くて、海岸道路から大野町の幹線道路へ出るには店の前から大野灯台への水路沿いの道しか有りませんでしたから、ダンプなどの護岸や港口整備の工事用大型車が多く通っていました。f:id:shannon-wakky:20150304233915j:plainf:id:shannon-wakky:20150304233840j:plainf:id:shannon-wakky:20150304233739j:plain

道路は『みなと橋』の袂に一軒だけ在るこの建物の間のみが一車線巾に狭くなり、建物の間の狭い道を抜け出るT字路の見通しの悪さと、短いながらも坂になっている為に、出会い頭の衝突と雨や雪でのスリップ事故が多発していて、トレーニングコースで広い幹線道路へ抜けるこの場所が一番危険でしたね。f:id:shannon-wakky:20150304233701j:plain

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1975年5月に金沢港側に架かる『大野新橋』が完成しても、幹線道路端の『みなと橋』から金沢港岸へ抜ける大野四丁目内の道が分かり難くて狭く、1991年3月に大野川分水路河口の『おおの大橋』が開通するまでT字路の事故は少なくなりませんでした。

なので、『しあわせのかおり』を観てロケ地が「あら、この建屋は、あの角家じゃん!」て、直ぐに分かりましたね。f:id:shannon-wakky:20150304234021j:plainf:id:shannon-wakky:20150304233948j:plain

当時は、地域の利便性や安全性を考えて建物の強制撤去の話も有りましたが、幸せな映画のロケに使用され、『大野湊食堂』が営業を始めくれたので、残されていて本当に良かったと思っています。

以前は饂飩屋だったという記事も読みますが、私的に何度も通っている場所なのですけれど、時間帯が違うのか営業している店舗の記憶は無いです。

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『大野湊食堂』は、大野川分水路を渡って醤油醸造所が多い大野四丁目へ至る『みなと橋』の海側袂に在ります。

大野四丁目は、金沢港が国際港として拡張される前は内灘砂丘南端の粟ヶ崎と陸続きで、湊は河北潟から流れて現在は分水路とされている大野川沿いの、金沢港『いきいき魚市』横に在る船溜まりの漁港だけでしたが、港拡張工事で大野四丁目の北側の砂丘を幅400m近くも削り、川幅拡張と共に浚渫して港口を新たに造成したので、大野四丁目は出島のような島状態になってしまいました。f:id:shannon-wakky:20150304234125j:plainf:id:shannon-wakky:20150304234155j:plainf:id:shannon-wakky:20150304234223j:plain

駐車場は店舗の斜め向かいの小路を30mほど入った左側の空き地です。

他車の出入りに支障になりそうになければ、何処へ駐車しても構いません。

駐車場奥の大野川分水路岸からは向こう岸に醤油醸造所の蔵や煙突が見えますし、見晴らしの良い日は右手の『大野新橋』の彼方に立山連峰がくっきりと見られます。f:id:shannon-wakky:20150304234255j:plainf:id:shannon-wakky:20150304234328j:plain

駐車場へ至る道や表の幹線道路沿いには、藩政時代からの建屋が多く現存していますので、ノスタルジー気分で『大野湊食堂』へ訪れて下さい。

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『大野湊食堂』は協賛する大野醤油協同組合が醤油などを提供し、大野の味をPRする発信拠点としているのですが、折角の ロケ地を使用した店舗は一年間の賃貸契約で、その後は大野町内の別建屋へ移ると取材記事に記されていました。

『しあわせのかおり再生計画』が一年間のみ(2015年10月まで?)なのは、とても残念ですが、PRの発信拠点としてはスペースやロケーションに発展性が無さそうなので、仕様が無いですねぇ。

それでも、話題性が有る限り、現店舗で続けて欲しいと願っています。

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写真は、2009年7月末と2015年2月下旬が混在しています。

店内の写真は許可を得て撮影しています。

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大野四丁目(大野湊? 大野島?)に在る醤油醸造蔵です。

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PS:

浙江省の紹興市へ行き、中華料理を食べて老舗醸造の『紹興老酒』を飲みながら、映画のように運河を眺めたいですね。

紹興酒(シャオシンジョウ)はアルコール度数14~18の褐色の酒で、身体に良い薬酒とされて白酒(バイジョウ:透明でセメダイン臭い)などの強い酒を飲む宴会のラストで良く飲まれています。

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紹興酒は米を原料にする黄酒(ファンジョウ)に分類されますが、大陸の世間一般の飲食店で黄酒と言ってオーダーすると、紹興酒じゃなくて別の酒を持って来ますから要注意です。

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紹興県産の黄酒(紹興酒)20年物(588元/約9000円 2016年10月5日レート)が手に入ったので、中華コースとは成りませんが10月後半の旬に、昆山市の自室で地元産の上海蟹(陽澄湖の中華絨螯蟹)の蟹味噌をシャブリながら一杯遣ります。

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いたいのいたいの、とんでゆけ  独りで間違った自由へ飛ぶ前に……

ライトノベル『いたいのいたいの、とんでゆけ/三秋縋』(出版 メディアワークス、初版発行:2014年11月22日、書籍サイズ:文庫)の紹介です。

 

「痛いの痛いの飛んでけー」、初めて聞いたのは中学生の時で、ぶつけたのが脛だったか、肘だったか、忘れてしまったけれど、声が出ないくらいの激痛にじっと蹲って耐える自分に気付いた女子が、傍に来て痛い患部を擦りながら言っていました。

それから、言い終わると患部を擦っていた手を広げて、掌に乗せた痛みを『ふぅ』と吹き掛けた息で空の彼方へ飛ばすような仕種をしてくれると、本当に痛みが半分に薄らいだ気がして、擦られていた掌の温かさに『こいつ、マジに手翳しでも出来るのか?』と思わず木目細かい肌の横顔を見てしまったです。

「どう? 痛くなくなったぁ?」

そして、見詰められているのに気付いた女子の、痛み具合を訊きながら向けられた笑顔に、感謝の言葉を添えて頷きました。

『なぜ、ぶつけた?』の自責と『どうして、ここで?』の対象物への怨みを女子は飛ばしてくれて、痛みが薄れた分だけ、スキンシップされた女子の匂いと愛らしさにドキドキしていたのを覚えています。

それ以来、いろいろと痛い場面で良く使っている御呪いの言霊ですね。

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ヒロインの能力はパーソナルリアリティや固有結界の類なら素敵だと思うのですが、その『無かった事に』は自分だけの現実や自分だけの世界でないみたいかな。

 

風も、匂いも、色も、形や感触も、声と音も、味も、五感全てがリアルに感じて、眼が覚めても身体中に記憶されている夢をよく見ます。

八時間以上も寝ていたのにリアルな夢は五分たらずの出来事だったとか、逆に数年にも及ぶ夢だったのに五分くらいしか寝ていなかったとか、そういうのも、その時のマインドテンションの違いからなのか見る事が有ります。

夢の中の出来事は普通に現実的ですが、実際には知らなくて夢で初めてという場所や相手が多いです。

リアルな夢の多くは自分主体とはっきり分りますが、そうではない誰視点なのか分らない場合も有り、いずれも時間を経過したり、同じ繰り返しだったり、過去だったりする続きも見たりして、予知や御告げになったりしてますね。

『無かった事に』を繰り返す世界は、彼女の嬉しさを閉じ込めた固有の閉鎖空間で、『エンドレスエイト』や『ビューティフル・ドリーマー』のように閉鎖空間内の誰かが、気付いたり、目が覚めたりすると、夢みたく霧散するのに似ているかもです。

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ストーリーは、どのシチュエーションも残酷で汚くて怠惰です。

それでも、暴力的に酷く蔑すまれる辛い日々を、繰り返す嘘とたった一つの嬉しさが、絶望の上乗せだらけでも生きる気力を失わせずに彼女をアベンジャーとさせたのは素晴らしいです。

現実に絶望して全てから逃げてしまおうと心底決めてしまってからは、命の尊さや生きる意義を説いても再び生に戻すのは、非常に難しいです。

でも、認めた呪いや悲しみや謝りの文を脱いで傍に揃えた靴へ置く前に、高く危険な場所の縁に立つ前に、絶望に意欲と気力を無くして生きる世界から逃げる前に、ふうっと魂が抜け出たくなる前に、そして、独りで間違った自由へ飛ぶ前に、たった一つの嬉しい想いを信じて生き抜いて欲しいと考えます。

そして、其処へ至ったのが理不尽な誰かや誰か達の所為だったなら、いつか必ず、彼女のように復讐・報復して遣って下さい。

何年も、何十年も経って無警戒にいる背後から『リリィ・シュシュのすべて』のラストのようにケジメをつけさせたり、その幸せそうな首や腰に抱き付いて力いっぱい飛んで遣りましょう。

決して、無抵抗に一人だけで逝かないで下さい。

人生を捨る堅い覚悟に至っていたのなら、そうできると思いますし、そうして遣りたいです。

 

拳で眼の周りが赤痣や青痣になったり、口の中を切ったり、鼻頭の軟骨が折れて曲がったりするくらい殴られた事は有りますか?

鳩尾を深く殴られたり、男なら鋭いキン蹴りを喰らって、暫く蹲るくほど悶絶した事は有りますか?

身体の一部を切ったり、削れたり、潰したりして、自分の骨や、出ている真っ赤な中身や、激しく鬱血した皮膚を見た事は有りますか?

火が付いたタバコを叫ぶほど押し付けらて酷い火傷した事は有りますか?

他人へ酷い事をした事が有りますか?

事件や事故や自らの行為で、デッドラインを越えそうになった事は有りますか?

病気で死線を彷徨い生還した事は有りますか?

などなど、読みながら、そんな体験を思い出して改めて自分に問いかけていました。

 

『いたいのいたいの、とんでゆけ』『三日間の幸福』『スターティング・オーヴァー』、どれもタイムパラドックスの超常現象を絡ませた電波さが良い感じで好きですね。

前半から用水と遊園地へ遡るのが非情で、もう十回余りは読み直していますし、独り善がりと虚しさに身がつまされる前作二冊も相変わらず読み返しています。

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百年の孤独のチョコレートボンボンは、チョコぼんぼんの百年の孤独(黒木本店:宮崎県高鍋町)

私的にボンボンの中の酒は、液体でなければならない。

ゼリーだったり固形物が混じったりの加工を加えては、ボンボンじゃないと思うのです。

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割れ蕩ける薄いチョコ皮から中の濃厚な酒が口の中へ広がる味わいは、融けるチョコの甘苦さの異質に絡まる美味しさが、ホンマモンでしょう。

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『焼酎屋のぼんぼん』は、バレンタインディーに妻からプレゼントされました。

毎年必ずではないですが、良く手に入れてくれて心から感謝です。

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チョコレートぼんぼんは大粒で口の中へ入れると、もう潰れて割れるきゃないという感じで、砕けるチョコの外殻から広がる酒の味は全然麦焼酎っぽくなくて、しっかり年季が入ったウイスキーの味わいです。

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その芳醇な香りが、蕩ける大人味のチョコの風味といっしょに口から鼻へと駆け抜けて行きます。そして、融けるチョコとマッチした『百年の孤独』は、上質なブランデー風味のリッチでレアな咽喉越しになります。

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マロンレッドの包装紙で包まれた桐箱の中には御挨拶文と、裏面が金色の銀紙に包まれたぼんぼんが八つ入っていて、なかなかシックで粋なパッケージです。

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金石の砂丘(石川県金沢市の金石北と大野町)

初めて金石の海へ行ったのは、高校一年生の春でした。

弓道部のトレーニングで週に四日は畝田町の工業高校から、金石街道を一年生の初秋で廃線となった北陸鉄道金石線の電車が追い抜いて行くのを睨みながら、くたくたになって金石の浜まで走りました。

中学校では入部した剣道部が顧問先生の転勤で、あっさりと廃部になってから二年間も体育の授業以外にスポーツをしていない身体は、ランニングやトレーニングに慣れるまでの一学期の間中、毎回、渚に突っ伏してしまい、その度に引き摺られたり、蹴られたりして先輩達に無理矢理起こされていました。

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体格と体力を作り、射法八節の競技姿勢を整えるトレーニングを繰り返し行った、金石町から大野町の金沢港口までの直線道路が通る護岸提の下の砂浜は、流木と生活ゴミが多く、季節によって多少の違いは有りましたが、広いところで50m、狭いところでも20m以上の砂浜が続いていました。

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砂浜から護岸提上の道路へ上がると、道路向かいにはニセアカシアとクロマツの林で覆われた高さ10m余りの土手のような盛り土が、道路と平行に金石の町の人家の外れから大野の灯台裏まで続いていて、その海側の浜茄子と浜顔の群生が点在する砂地の斜面から、人工的な防砂の土手ではなくて自然に形成された砂丘だと分からせていました。

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砂が頂上まで剥き出した金石の町に近いところでは、海風に吹かれて移動する砂丘に呑まれたニセアカシアの立ち枯れした白い幹が林立していて、どこか異世界ぽかったですねぇ。

そこではトレーニングを兼ねて、缶蹴り遊びもしました。

先輩も、後輩も、関係無く、時間を忘れて夢中で砂丘を走り回って、いつもなら大野の灯台下を折れて学校へ戻るコースを、金石で止めてUターンしていたという、部活の楽しい思い出での一つです。

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立ち枯れしたニセアカシアが残る砂丘の頂きから海原を眺めるが好きで、夏場のいつまでも落ちようとしない斜陽、春の金波銀波の波間と黄昏色に染まる不思議な金石の通り、秋の日本画のような深紅の夕陽が融けるように沈む艶消しの海や朱色に染まる空、冬場の戻りコースで見上げた水平線の彼方から迫る真っ黒な山脈みたいな雪雲など、金石や大野へ行く度に多くのフルカラーの思い出が匂い付きで蘇ります。

そして現在、金石の砂丘の砂地は草にすっかり覆われてしまい、増えたクロマツや育ち始めた笹にニセアカシアは減り、見目は造成した盛り土の土手で全く砂丘だと分からなくなってしまいました。

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一部は『やすらぎの森』として風致区の公園整備が成されていますが、陸側の一部は宅地にされました。

広々としていた砂浜は、1965年に完成した犀川ダムの影響は少なかったのですが、1974年に犀川の支流の急流に造られた内川ダムによって土砂の流入が減り、更に1979年に完成した手取川ダムが白山流域から日本海へ運ばれていた手取川系の土砂を激減させた為に、年間7mの砂浜を波浪の侵食で失い続け、1990年代前半には、とうとう大野川河口部を僅かに残して砂浜は無くなりました。

そして現在、1996年から2015年の工期で行われている海へ340m~600m近くも張り出した埋め立てで、もう浜では無くなってしまいました。

それでも、流入土砂の自然体積部分とされた犀川河口の金石側の1/3の区間は、何れ埋まってしまうでしょうが、弓なりの砂浜が形成されて、ビーチのような景観になっています。

金石町の海原地区となる埋め立て工事が完了し、護岸提上だった道路なども整備し直されてしまうと、砂丘も公園区画以外は崩されて、内灘の砂丘のように宅地や商業地へと変わって行く事でしょう。

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思い出のお気に入りの場所が、利便を求める時の移り変わり故に失われて行くのは、悲しくて寂しい事です。

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過去の金石の海岸とお宮について:

金石の町は近代まで宮腰(みやのこし/みやこし)とも呼ばれていて、金石近くの高校へ通っている頃は、よく耳にしました。

金石の南隣の寺中町に猿田彦を祭る大野湊神社が在ります。

天照を祭る古の社に合祀しての創建は727年ですが、1252年に火災消失で宮腰(現在の金石)から東へ八丁離れた場所の、同じ大野庄内の離宮が在った現在の寺中の地に移されています。

当時、湿地帯の中の洪水でも島のように残る周囲より僅かに高い乾燥した離宮八幡の土地が選ばれたのには、貰い火による火事を防ぐ目的が有りました。

大野湊神社の場所を移す遷御は三度目で、寺中の地へ移る以前は犀川河口近くの町外れに在ったと思われます。

場所は1260年頃に、火伏せの神が祭られて創建された秋葉神社辺りだったのかも知れません。

合祀された創建時は、佐良獄(さがらだけ)と呼ばれた砂岩の山が、現在の『かないわ病院』の在る普正寺町の犀川河口南岸から突き出すように小高く聳えていて、その山頂の真西を向いた社に祭られていました。

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その頃の加賀から河北潟への広大な平野は、多くの湖沼が点在する大湿地帯で、頻繁に氾濫して蛇行する河川は河口も定まっていませんでした。

故に、佐良獄が存在した頃の犀川の流れは、現在のように金石の町を隔ててなのか、専光町の南外れから海へなのか、もっと南の白山市倉部町へ至っていたのか、分かっていません。

河口が何処にせよ古からの港町の金石は、海辺に聳える佐良獄の麓を人の腰に例え、頂にお宮を祭る山の腰に栄える町で宮腰と呼ばれていました。

犀川と大野川に挟まれた金石の海岸には、大湿地帯と手取川などの加賀地方の河川から土砂が今よりずつと大量に沿岸流で運ばれて、安原の砂丘と共に現在の内灘砂丘に匹敵するくらいの砂が高く堆積した砂山の広がりで、大きく海へ張り出していた事でしょう。

以後、乾燥して行く平野と変化する潮流に、海へ突出していた佐良獄は削り崩され、張り出していた金石砂丘は大きく流失されてしまったのです。

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現在に残る金石砂丘は、陸側のほんの一部だったのかも知れませんね。

勧進帳で有名な安宅の関が在った加賀の砂丘群、かつては丸い大きな石ばかりが転がる広大な松任の砂利浜、平家が陣を張った戦略要衝の佐良獄と金石砂丘、その北側の粟ヶ崎町から羽咋市まで長く続く内灘砂丘は、越前から能登へ至る古からの重要な交通路でしたが、乾燥していく平野に水田が増えて街道が整えられて行く戦国時代後期には、内灘砂丘以南の浜辺は流失して狭まり、やがて浜から運ばれて来る砂の量が飛び散らされる量より少なくなると、徐々に砂丘群は低くなだらかになってしまい、江戸期初めには人々や産業の往来が発達した土木技術で整備された街道へと移って行きました。

旧国道八号線は、加賀の平野部に整えられた北国街道、加賀地方の海沿いを通る北陸自動車道は、古代の砂丘や浜辺を伝う北陸道と道筋がほぼ同じです。

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平盛俊が佐良獄に陣を敷いたのは倶梨伽羅峠の戦いの1183年、火災消失による大野湊神社の三度目の遷御が1252年、1183年の佐良獄がどのような状態だったのか知り得ませんが、以後、僅か70年程で、佐良獄は崩れて消滅して行き、大野湊神社は金石の町へ遷御された後、火災で消失した事になります。

近年の1年間に7mも砂浜が消えた金石の浜以上の流失現象が起きたのです。

当時、離岸提や人工リーフなどの発想や工事技術が無くて、自然が安定させるまで為す術は有りませんでした。

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大野湊神社の大野は、大野庄/大野郷で、湊は、外港機能を共に持つ宮腰と大野の港の事です。

現在地に移った後に分社した神社が、金石砂丘の南端近くの住宅地に『西の宮』、普正寺町の『かないわ病院』脇の海側町外れに『西ノ宮』、普正寺町の南隣の専光寺町のグラウンド近くの防砂林際に『西之宮』の微妙に違う社号で、大野湊神社の西方の地の広範囲に鎮座しているのも、古からの影響力が如何に大きなモノだったかを伝えています。

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『やすらぎの森』傍の大山昨の山の神と大物主を祭る大野日吉神社は、創建が860年ですから大野湊神社と同様に租庸調以前の古から開かれた外港が在る重要な地を統べる戦略拠点だったのでしょう。

両神社は、布陣の地と源氏の軍勢に焼かれた、謂れの有る由々しき宮です。

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--- 金沢市くらしの博物館展示資料の写真考察 ---

1966年(昭和 41)7月に内灘砂丘最南端の粟ヶ崎地区から見た金石砂丘の北端(大野町側)です。

暈やけてはっきりしない白い大野灯台の背後に見える小高い丘のような砂丘は、現在よりも高い感じがしますね。

既に金沢港造りの浚渫工事が始まっていて櫓やクレーンが見られます。

金石砂丘と内灘砂丘を隔てるのは河北潟から流れる大野川のみだったのですが、国際貿易港として大野漁港の奥の大野川を広く深く拡張して金沢港が築港(12か年計画:1964年~1978年)され、更に大野川河口北岸の醤油醸造所の北側の砂丘を掘って新たに広い港口が造られました。

白い体操服姿は粟ヶ崎海岸へ海浜遠足に来ている金沢市内の小立野台地に在る紫錦台中学校の二年生か、三年生の生徒達で、女子の多くは夏の陽射しを避けて日傘を差しています。

市電の廃止が1967年2月なので、下石引から市電で金沢駅へ行き、そこから北陸鉄道の浅野川線に乗り換えて夏場だけの終点の粟ヶ崎海岸駅(金沢市粟崎町4丁目の浜側辺り:1972年/昭和47年8月31日が最終運転)で降りているのでしょう(それともバス遠足?)。

写真の辺りは今も砂地ですが、五郎島金時の芋畑になっていて無造作な立ち入りはできません。

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三又大杉(山中温泉菅谷町八幡神社)

途中から三本に分かれた幹の寄り添いと広がり具合が女性的に感じる樹高54mの杉の大木です。

樹齢は2300年で、幹周囲が8mと説明板に記されていました。

三つ幹なのは、もともと真っ直ぐな一本の幹だった大杉を伐採して帆柱用に高額で売ろうと算段していたところ、その翌朝に幹が三つに割れ分かれて売り物にならなくなっていたからだそうです。

この言い伝えは、たぶん謂れある場所の象徴的な事物は、大切にして粗末にするなという戒めなのでしょう。

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三又(みつまた)の大杉は国道364号線を山中温泉の旅館街を抜けた平岩橋で左へ折れて大聖寺川を渡ると、突き当たりの菅谷(すがたに)の郷に鎮守する八幡神社の苔生した境内に、待ち人の訪れを願う艶めかしい貴婦人の立ち姿の如く見えて来ます。

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国道364号線は菅谷へ折れずに山地を進んで県境の大内峠を越えると、永平寺や丸岡城へ至る古代や中世の物流や宗教交流に重要な街道でした。

応神天皇を祭神とする菅谷の八幡神社は、近くの栢野の大杉が植わる菅原神社と共に大聖寺へ至る街道口を管理する拠点で、この5000年前の縄文遺跡が在る菅谷の郷は、周囲の山々に巨石や岩壁が見られるように古代から守りに適した重要な地だったのだろうと考えます。

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環境や地理的に菅谷八幡神社の地も神社を創建する以前は、陣屋や砦などの遺構が在ったのかも知れませんね。

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