遥乃陽 diary

日々のモノトニィとバラエティ 『遥乃陽 diary』の他に『遥乃陽 blog 』と『遥乃陽 novels 』も有ります

世の中は感動と憂いに満ちている。シックスセンスが欲しい!

ユニコーンガンダム(設定サイズ1/1)を10月6日に御台場で見ていた

『おおっ、真っ白じゃん!』
ビックサイトへ向かう朝のユリカゴメの車窓から見える木立の上に胸から上が現れている、赤と青の色が入らない一年戦争のとは違う白一色のガンダムに思わず声が出て、予定外のテレコムセンター駅で途中下車をしてしまった。

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一つ前の船の科学館駅の方が近いのだけど、白一色に気付いた時はドアが閉まる時で間に合わなかった……。
それに次の青海駅で降りた方が近かったかも?! と思ったのはホームに掲示されていた地図を見た時だった。

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2017年9月24日(日)より東京・お台場の「ダイバーシティ東京プラザ」の「フェスティバル広場」にて、正式に展示を開始された全高19.7mの白いユニコーンガンダムの正式名称は、「RX-0 ユニコーンガンダム Ver.TWC(TOKYO WATER FRONT CITY)」です。

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展示されているユニコーンガンダム(RX-0 / 1号機)は立像モデルなので、自立歩行や飛行は出来ません。
ですが、アニメのユニコーンモードから「NT-D」発動時のデストロイモードへの変形を可能な限り再現し、発光します。

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このデストロイモードとは、ニュータイプや強化人間のようなサイコな連中を感知して抹殺するという、ジオン・ズム・ダイクンが提唱した人類の革新を真っ向から否定するシステムなのでした。

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パイロットはバナージ・リンクス。

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惚れた女の望みを叶える為に身も心も捧げる、無謀なほど勇敢な賢くて志の有る逞しい男です。

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《男だって、苦しい時、悲しい時、嬉しい時に泣いてもいいんだぞ、バナージ》

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ユニコーンと一緒に王女に従い守るバンシー(ロリコン少尉ではなくてマリーダ仕様で)も立たせて欲しいと思う。

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ユニコーンガンダムのストーリー背景は、『逆襲のシャア』の戦慄から僅か3年後の世界。
現代でも3年も経てば、ワールドワイドな事柄でも忘れたり、無かった事にされそうになったり、更に上書きされたりしているので、違和感の無い間隔でしょう。

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ストーリーの根幹を成す『ラプラスの箱』……、最期の一行は、もっと説得力の有る文にして欲しかったですね。
例えば、『人類の進化を促す』とか、『人類を進化させる』とか、断定的な言葉で締め括ったら、ネアンデルタール人がクロマニヨン人に駆逐されたような、現代人がニュータイプという新人類に支配されて根絶されるみたいな不安を浮き出させて、より隠匿を煽れるのではなかったかと考えます。

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真のニュータイプへの概念は範囲が広くて、分かり合えても争いは根絶できないので、終末的には『イデオン』の第6文明人の様に至ってしまうのでしょう。

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お気に入りの『逆襲のシャア』は、アムロとシャアが生存している其の後を観てみたいですし、ユニコーンガンダムは、メンタルが崩壊しなかったバナージ君とジオン自治宙域を率いるミネバ・ラオ・ザビさんが幸せになったのを知りたいですね。
……火星の大元帥ジョン・カーターとヘリウムの王女デジャー・ソリスみたいな。

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新東名高速道路の下り静岡SAのNEOPASA静岡(STRICT-G)では、MOBILE SUIT RX-0のTシャツを買っていますね。

ふじのくに地球環境史ミュージアム /ミニチュア情景製作の技巧と発想!

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精密とは精度が緻密という意味で、細かい物が複雑に高密度という意味では有りません。
精度が緻密という精緻は高精度が緻密という意味です。
したがって精密は、精緻という事でも有ります。

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精度とは、サイズや表面や角度が正確な事で、限り無くピッタリな寸法の大きさ、歪みや反りなどの変形が無い平面で凹凸の無い滑らかな面、揺らぎの無い直角や角度、その正確な精度で丁寧な製作や作成が精密です。

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高度な正確さで丁寧な作業の堅実な積み重ねが精密なのです。
その精密な先端の鋭利さに神が宿ると古から謂われています。
そして、精密は工業系の製造に限った事ではなく、モノづくり全般に使う言葉です。
ふじのくに地球環境史ミュージアムを訪れて、その事を改めて感じました。

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ふじのくに地球環境史ミュージアムを知ったのは、モデルアーマー2016年5月誌上の田村廣幸氏のコメント記事からです。
記事の本文外に記された、『1/10くらいで人々の暮らしを再現した、素晴らしいミニ情景が有る、ふじのくに環境史ミュージアム』に、とても興味が湧いて、直ぐにでも観覧に行こうと思いましたが、なかなか行くチャンスが無くて、訪れるのに1年以上の年月が経ってしまいました。

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モデルアーマー誌にコメント記事を連載する田村氏は、ツインスターの会社にいた時の先輩で、その人当たりの優しい言動と物腰、そして、長身でハンサムな顔立ちの容姿と開発部の設計者という職務に、後輩、同僚、上司に人気が有り、『桜井さん、桜井くん(旧姓)』と慕われていました。

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その頃のツインスターは、若手男子社員の殆どが私を含めて地方出身者で、皆、就職希望の手紙を送り、試験を受けて入社していました。
東京の型屋へ発注していた金型を、少しずつ自社製造し始めた頃です。

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金型の製作工程、構造は配属された金型メンテナンス班で学びました。
桜井氏は、たった二ヶ月で独身寮から憧れの『男おいどん』の四畳半部屋のアパートへ移った、一匹狼的に粋がる新入社員の私へも、公私共、優しく御指導御鞭撻していただいた方です。
私生活は?でしたが、仕事には妥協しない人でした。

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富士の少年戦車兵学校へサイパン島から到着した帰還九七式中戦車チハを見に行ったのも一緒でしたね。
他に仲良くしていただいた先輩社員には、スィートの社長、アスカモデルの社長、エブロの社長の方々がいたのを憶えています。

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タートルの社長は金型部の新型班へ配属された同期で、現在も連絡を取っています。
エブロの社長は金型部から開発設計へ転属した方で、75mm対戦車砲の金型の立ち上げでは組立合わせに全く妥協せず、20回近くの修正試作をしました。

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アスカモデルの社長は直属の先輩でした。
静岡師団の工兵隊に召集されて香港攻略戦で大腿部に貫通銃創の負傷をした元帝国陸軍伍長の親方と共に厳しく指導されましたが、心根の優しい方で、タートルの社長と一緒に富士山を登頂しました。
(眼下に広がる雲海、強烈な頭痛の高山病、御来光、満天の無数に煌く星々、歯の根が合わない寒さ、今も鮮明に覚えています)

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ツインスターの社員は誰もが担当の仕事に真摯で妥協はせず、作業の完成度は現在も非常に高いです。
仕事に使用する道具はツインスターオリジナルが多く、精密な仕事をする会社だと当時も現在も新鮮に驚いています。

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田村氏が記していたミニ情景は、ふじのくに地球環境史ミュージアム1階の第5展示室に有ります。
このブースのテーマは『ふじのくにの環境史』で、縄文時代から現在までを四つのシーソー展示に分けて、
それぞれの人の生活と自然環境をウエイトバランスで現しています。

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このウエイトが、四角い透明ケースに入った1/16(1/10ではなかった)のミニチュア情景になっていて、その緻密でリアリティーな表現技工は全てのスケールのジオラマ作りで、とても参考になると思っています。

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縄文人、弥生人、中世時代の人、現在人、それぞれの骨格や顔付きを発掘人骨の資料から造形されていて、手足の肉付きと共に違えています。
衣服の繊維の質感、玄翁や編み込んだ篭などの道具、木目が美しい(本物の木材?)箪笥や食物などの造形は、フィギュア製作の参考になります。

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自然環境のミニ情景は、樹木の違いが分かる樹皮と枝葉に落ち葉、雀や雉や鼠などの小動物、草花に茸や苔、アワの穂に水、水中の魚に水底、地肌に小石、これらを製作された会社に、その発想と技法を学びに行きたいですね。

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現代の人のケースに有る1/16のパジェロミニは、何処のキットを改造製作したモノでしょう?

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現代の自然環境の情景だけ1/16ではありませんが、鉄道模型のレイアウト製作の山地や砂防ダムや土砂崩れの造形の参考になります。

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f:id:shannon-wakky:20171026062906j:plainスケールモデルのジオラマを製作する方には必見です。
新たな発見と製作意欲が湧くと思います。
出来るなら、シーソー展示間の時代も製作展示して欲しいかもです。

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写真撮影は全展示が可能ですが、フラッシュの使用はダメです。
三脚の持込使用も不可ですし、自撮り棒も不用意な取り回しで展示物を損傷させますのでダメです。
そして展示物にはDo not touchです。
破損や変色の恐れが有りますから触れてはいけません。

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ふじのくに地球環境史ミュージアムは、各展示のテーマ、レイアウト、展示品、バランスが緻密で精密です。
思いを廻らせ、考える展示バランスになっています。
他の展示内容も、スケールモデラーの参考になる事が多いでしょう。

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1階の展示:

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1、地球環境史との出会い

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2、ふじのくにのすがた

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3、ふじのくにの海

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4、ふじのくにの大地

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5、ふじのくにの環境史

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2階の展示:

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6、ふじのくにの成り立ち

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7、ふじのくにの生物多様性

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8、生命のかたち

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9、ふじのくにと地球

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10、ふじのくにと未来

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昆虫標本の製作

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他にも『キッズルーム』と『図書カフェ』が在り、幼い御子さんと一緒でも安心で、ゆっくりできます。
次回の観覧は何時になるか分かりませんが、まったりと図書カフェで地層標本(固め方)を思案したいですね。

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各展示エリアのガイドは担当展示物への知識が豊富な、親切で優しい女性の方々です。
概略の説明に加え、浅い問には軽く、深い質問には重く、ユーモアを交えて答えてくれます。

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会館時間は10:00~17:30ですが、最終入場は17:00です。
休館日:毎週月曜日(月曜日が祝日の場合は次の平日)& 年末年始
常設展観覧料:
個人:300円
団体(20人以上):200円
大学生以下の学生、70歳以上、身障者手帳所持者の方々は無料です。

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場所:
閉校になった静岡県立南高校の校舎と敷地と机や椅子などの用具を再利用したミュージアムなのですが、位置とアクセス道路が分かり辛いです。
自動車で行くには、静岡市日本平西側沿いを南北に通る大谷街道を南の駿河湾の方へ走り、静岡大学前を過ぎてから用水路のような川を渡った直ぐの左手に在るコンビニの手前を左に曲がって、細い小路に入ります。
道は細く沢沿いの森の中を抜ける寂しい道ですが、道なりに進んで坂を上るとミュージアムに着きます。
反対方向からは、大谷街道を更に南へ進み、右側に消防署が在る丁字交差点を左へ曲がって行きます。
多少、道は狭くなったり、曲がったりしますが、突き当たりまで行って左方向へ進み続けると、ミュージアムへ到着です。
丘陵奥のこの様な辺鄙な場所に在った高校へ通った生徒さん達に脱帽です。
(昼休みに買い食いに行けないし、エスケープは難しいし、変質者のアンブッシュが怖い!)

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ふじのくに環境史ミュージアム
Museum of Natural and Environmental History, Shizuoka
〒422-8017
静岡市駿河区大谷5762
電話:054-260-7111
FAX:054-238-5870
E-mail:into@fujimu100.jp
ホームページ:WWW.fujimu100.jp

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PS1:
ツインスターに入社して直ぐに各工程の作業を1週間ずつ体験する実習が有りました。
その実習で生まれて初めて、毎日、同じ位置で8時間拘束されて流れ作業を繰り返すという事の辛さに、
『死にそうだ』、『死んでしまう』とレポートに書いていたところ、新入社員の実習カリキュラム指導の20歳代半ばぐらいの先輩から、ミーティングで『君は、本当に死んでしまうのですか?』と問われて、大赤面してしまいました。
それ以後、『死ぬ、死ね』などの不幸な言葉を言わない様にして、気持ちもネガティブからポジティブへ切り替えています。

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その体験実習にショップ店への完成見本を作るという工作室の部署で模型組立の作業が有りました。
デザートラットのフィギュア4体セットを与えられてパーティングライン処理と塗装を命じられました。
当時の色塗りは指定範囲を指定の色で綺麗に塗るという単純さで、その単純さと詰まらなさに、実感を持たせた塗装の許可を求めたところ、『遣ってみろ』と許されました。
ハイライトとシャドウ、色の濃淡に艶無しの質感、モールドの輪郭を際立たせ、表情や細部の書き込みなど、ウエザリングや汚し以外の塗り込みを行いましたが、結果は不採用の却下でした。
折角、レンブラントの絵の人物の様になったのに、今じゃ当たり前のリアルな塗装が当時は理解されませんでしたね。f:id:shannon-wakky:20171026064928j:plain
金型部の新入社員の歓迎会が静岡大学近くの焼肉屋で行われました。
そこで初めて薩摩芋焼酎を飲み、気が付いたら自分の四畳半の部屋で寝ていて、既に翌日の昼過ぎでした。
ゲロや二日酔いは経験していましたが、意識が無くなったのは初めての事でした。
その翌日の月曜日に知ったのは、意識を無くした私を介抱して部屋へ入れたのは、同期のタートルの社長と直属上司のアスカの社長でした。
しかも、送られる途中でアスカの社長の新車の中でゲロっていて、平伏して謝っていた次第です。
たぶん、酒が強くなったのは、それが切掛けです。
改めて、申し訳有りませんでした。

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PS2:
因みに、鉄筋モルタルの四畳半アパートの大家さんは、静岡師団の対戦車砲を担当した陸軍の軍曹でした。
フィリピンで鹵獲したトミーガンを背負い、ぬかるんだ道で任されていたゴムタイヤ仕様の90式野砲を押して回っていたそうです。
砲弾が無くなった後は逃げるだけだったと話してくれましたが、戦闘の詳細や逃げて復員するまでの事は言いませんでした。
日中戦争から従軍されていた寡黙で頼りになる方でした。

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内臓脂肪で喘息になった。

体重が84kgを越えてからずっと、咳が出始めると1ヶ月以上も咳き込んでいました。

それまでは大抵、夏風邪か、冬の寒さから出る咳で、ずっと内臓脂肪が原因だとは全く思ってもいませんでした。

その咳き込みが、2016年の年末から2017年の春まで喘息のように絶え間なく、息も絶え絶えの窒息しそうになるくらいに激しく出るようになりました。

それでも、暖かくなれば、例年通りに咳は治まるだろうと考えていましたが、胸や気管支や咽喉の病気を心配する妻や知人の懇願で、2017年5月上旬の一時帰国時に掛かり付けの医院で胸のレントゲンを含む簡易検診をしました。

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これ以上に体重が増えて更に体格が丸くなったら、『なんかヤバイかも』と感じたのは、妻の願いを聞き入れて、妻の指導の下、春の柔らかい陽射しの午前中に家の周囲の雑草取りに従事した、2016年4月初旬の時でした。

雑草と抜いてはいけない草花の見分けを指示されながら、妻が行うようにしゃがんで雑草を根から取り始めました。

ここにも、こちらにも、そこにもと手先を動かして作業を進めて行くと、3分も経たないのに息が苦しくて、もっと酸素をと肺というよりも、身体全体が喘いでしまいます。

苦しさに立ち上がると速い動悸に肩で息をしている自分に驚きです。

それは、しゃがむ姿勢で横隔膜の上下運動を妨げて、浅い呼吸になっていたからでした。

その原因はウエイトと体型!

計画ウエイトの74㎏に対して、14㎏オーバーの88㎏。

女性と違い、男性は腹式呼吸。

出ているお腹が、横隔膜の動きを妨げて窒息寸前にさせているのでした。

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だが、妻の至上命令には逆らえない!

で、楽にできる姿勢を考えた。

四つん這いや寝そべると、横隔膜はスムーズに動き、窒息しないし、疲れない。

その結果は、予想以上に早く綺麗に雑草を除く事ができまて、初志貫徹! 目標達成! 夫婦円満!

しかし、写真のように両腕が全治2週間のキズキズになってしまった。

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それ以来、体重を増やさないように赴任先での自炊の具材や、付き合いの飲み食いのメニューに気を付けていたのですが、横隔膜を持ち上げて肺を炎症気味にさせるくらい、内臓脂肪を付けてしまっていたのです。

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以前、暴飲暴食で体重を90kg越えにさせ、赴任先の定期健診で血圧が上で190オーバー、下が160オーバーとなって、急遽、日本で治療する為に帰国させられた経験が有るくせに、再び自己管理が出来ない無能さを自覚させられました。

(血圧は其の後、正常値に戻りましたが、1日1回の薬は飲み続けています。因みに血液は、その時も、今も、常にサラサラ状態です)

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受診に行った日(2017年4月26日)のレントゲン写真を見た医者先生が、

『あら、あらあら、ちょっとぉ~』

と、不安になるような事を言いながら、看護師に以前に撮ったレントゲン写真を持って来させて、バックライトボードに並べ翳して、見比べます。

以前のレントゲン写真の日付は、2015年5月11日。

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『心臓が傾いているね。横隔膜が上がって肺を圧迫しているわ。でね、肺が炎症気味で、ちょっと白いねぇ』

医者先生が説明するには、傾く心臓は心筋梗塞を誘発するし、圧迫で肺は、まだ炎症気味程度だけど、併発する肺の病気が心配だと、でも肺癌や肺繊癌や結核では無いし、気管支炎でも、咽喉癌でも無いそうだった。

横隔膜が上がった原因は、内臓に分厚く付いた脂肪層。

脂肪が増え続ければ、症状が悪化するし、現在の症状も内臓脂肪を減らさないと改善しないという診断が来た。

心臓麻痺でポックリも有り得るとの事で、結構ヤバイ状態だった!

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そして、ダイエットが必要と指摘された。

で、半年で95kgの体重を75kgまで落としたという義弟の意見を参考に炭水化物ダイエットを始めた。

とはいっても、炭水化物なんて範囲が広くて、省く物が良く分からない。

義弟が言うには、

『御飯、麺類、甘い物は食べない。肉類と魚類と野菜、それに果物はバクバク食う』

そうだ。

要は、植物の種を原料とした食べ物全てだ。

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毎晩の酒(ビール、大吟醸、ウイスキー、ブランデー、ワイン)は、付き合いが無い限り、飲まなくした。

それを実践して二週間、体重は2kg下がった。

更に妻が、

『食べるのは朝食と昼食のみよ。夜は食べないの。間食もダメ。チョコレートはやめなさい。 コーヒーに入れる角砂糖は1個だけ、粉ミルクもスプーン1杯までだからね』

と、念を押された。

妻のアドバイスも加えて更に2週間、体重は当初から5kg少なくなり、咳も稀になった。

自炊は豚バラ肉と玉葱などの野菜が主体で、肉は親指の爪くらいの大きさで調理して良く噛む。

そして4カ月後、体重は78kg代になった。

咳は全く出無くなり、体形もスマートになった。

でもまだ、運動が足りない。

工廠内の送迎車の停車位置からオフィスのディスクまで往復で約1km、4階のオフィスまでは階段の上り下り、というか、人が乗るエレベーターもエスカレーターも無い。

エレベーターが有る寮棟の5階の自室までも階段を使う。

時々はシェアサイクルで寮までの3kmを帰る。

エキスパンダーを40回にスクワットが30回で疲れてしまうが、もっと腹を凹ます為に、あと20回は増やしたいと思う。

バスタブには朝晩、潜るように浸かって発汗させている。

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其の後:

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2018年8月1日の定期健康診断での胸部レントゲン写真です。
体重は減り、内臓脂肪は減少して肺の下部は白くなくて炎症を発生させていません。
息絶え絶えになる喘息のような激しい咳き込みも、不自然な咳き込みも全く有りません。
ただ、残念ながら、まだまだダイエットの頑張りが足りない様です。
目標の75kgは目前で、欲が出て来て70kgまで軽くしたいと努力していましたが、一時帰国時の食欲によってリバウンドしてしまい、2018年の体重は80~83kgを彷徨っています。

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炭火焼肉 とく マルチョウ(牛の小腸)が旨い!(京都市のバス停『三哲』の直ぐ近く)

マルチョウの味は10年ほど前に、店前のホルモンの看板に惹かれて訪れた『とく』で、オーダーしたホルモンミックスで知りました。

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其の頃は、七条通りの七条西洞院と七条油小路の中間辺り、大正初期の石造り洋館を使ったパブの斜め向かいに在る営業所で1月余り勤務をしていて、堀川塩小路のホテルからの通勤の行き帰りに視界に入るホルモンの白地に黒文字が気になっていました。

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出勤時は堀川や油小路を上がり、帰りは西洞院通りのスーパーやコンビニで晩飯を買ってしまうのと、一人で一見さんには敷居の高そうな京都のプレッシャーも有って、なかなか入るのを躊躇していましたが、 大好きなホルモンの誘惑には勝てず、静々と訪れてホルモンミックスを注文したのです。

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通されたのは狭いスペースのカウンター席。

防火板を立て掛け、デデーンと炭火の火花が迸る七輪を置かれて、その脇へお冷とお絞りを除け、手前にタレと御飯を並べれば、後は注文した一皿の肉と生ビールのジョッキでいっぱいになってしまう、その窮屈さ!

だけど、この狭い御一人様スペースでチマチマと豪快に焼いて食べるのは、堪らなく自分専用の特別感を持たせてくれて、食べ始めると、全く気にならなくなるのでした。

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ホルモンミックスは焼きタレが付いた三種類のホルモンで、その中の一つが網の上で炙られると直ぐに油を滴らせて、豪快に燃え上がりましたが、それを更に転がして燃やします。

炎を上げて燃えても焦げ目は余り付かないソレは、焼き加減が分からないまま、編みの上を転がして炙り、頃合を見て、燃える油の火を直前で吹き消して、火傷しそうな熱いのをパクつくと、それまで知らなかった旨味が噛む度に口の中へ何度も、何度も広がるのです。

これが、マルチョウとの初めて出会いでした。

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また、燻るマルチョウの消火と程々の冷却を兼ねて沈める胡麻油ダレと熟成ダレは、何処か懐かしい味わいの美味しさで、白御飯の掻き込みを加速してくれます。

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京都出張は終わりましたが、以後、京都へ行く度に晩飯は『とく』でマルチョウ二つと飯大盛りを注文するのでした。

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だが、しかし、京都三哲の地縛に化かされたのか、三哲の辻に棲まう魑魅魍魎に気に入られたのか、其の後、訪れる度に、ほんの2、30m手前の塩小路西洞院の交差点から迷い、近くの路地を何度も行き来した挙句、漸く『とく』に辿り着くのでした。

『あっ、また曲がったあ。そっちじゃないでしょ!』

妻を連れて三度目も、迷いそうになって窘められた。

一人で訪れていた時も、毎回迷っていて、真っ直ぐに来れた事は一度も無かった。

帰りは迷わないのに不思議な事だと、毎回思う。

一度目は七条通りまで出て、堀川の大通りと油小路を廻ってから、『こんなに遠いのぉ』と嫌味を言われて、やっと辿り着いた。

二度目は妻に『こっちだっけぇ?』と不審がられながら、七条通りまで行って油小路で戻って来たら着けた。

三度目は妻の記憶の御蔭で、七条通り行きは未然に防がれた。

『今日は、曲がらずに来たね』

妻と来た四度目、漸く呪いから解かれたようだ。

知らず知らずと狭間を覗いたり、陰陽の印に触れていたのだろうか?

それとも、近くに猩猩や天狗や妖狐を祀る神社でも在るのだろうか?

京都も、金沢も、不思議な街で、似たような事を時々、体験している。

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因みに妻は、殆どホルモン系は食べなくて、焼き上がったマルチョウを一切れだけ口に放り込んだ後は、いつも自分用にオーダーした和牛特上カルビとキムチ三種を食べています。

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マルチョウは牛の小腸です。

大腸と比べて小腸は薄い厚みですが、脂がよくのっていて旨味が有ります。

炙られて滴る脂は、炭火の熱で焼き網の上が大火事模様になり、高く上がる炎と立ち込める油煙に気持ちが少し逃げて仕舞いますが、焼き網の熱を冷ます氷を置いて炎と気持ちを静めながら、炭火に甚振られるマルチョウの焼き上がり具合を確かめつつ、美味しくパクつきます。

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名前の由来は小腸を丸い筒状のまま、ぶつ切りにして焼くのでマルチョウと呼ばれ、丸腸とも書きます。

脂の甘味は濃厚で肉厚は薄く、ホルモン系としては軟らかくて食べ易いです。

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場所:

京都駅北口の大通りを左手の西方向へ進み、突き当たりのT字路の手前の道路右側 京都駅中央口から約300m(塩小路西洞院の交差点の西側北面) バスで向かうなら京都駅前から一つ目のバス停『三哲』で下車

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この『三哲』の地名は、バスの停留所の名前にしか現在は公共的に使われていませんが、そのバス停が在る塩小路通りの以前の名称は三哲通りでした。
徳川幕府から初代天文方に任じられた渋川春海は、中国から伝わり、中国との経度の差、太陽の近地点の変化などで江戸時代初めまで八百年の長きに渡って用いられて来た宣明暦法の暦が、天象と記載のズレが大きくなった為に、新たに日本の位置に適した補正を加えた大和暦を作成した、京都四条室町生まれの社交的で人脈豊かな天文暦と神道の学者です。
大和歴は貞享2年(1685)から 「貞享暦」として江戸幕府に採用され、太陽暦に替わる明治6年まで、日本全国の季節の行事や事柄の基準として広く用いられました。
この渋川春海は天文方に成る前、碁所の碁方を任じられていた安井家の長男の囲碁棋士で、名は父と同じ安井算哲でした。
天文方の渋川春海と碁方の安井算哲は同じ人物です。
その算哲の屋敷の在った場所が梅小路堀川で、現在の三哲のバス停辺り。
梅小路通りは三哲通りと呼ばれる前の名称。
京都東西通り歌の歌詞に、『ろくじょう、さんてつ、しちじょう』と唄われます。
そして、屋敷付近に住まう庶民達は、『さんてつ』の発音から『算哲』の漢字名をイメージせずに、分かり易い『三哲』の漢字を当てたのでした。

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PS:

この牛の小腸のホルモンは娘が嫁いだ福岡市の肉屋で、『とく』の皿に盛られて供される姿形そのままに量り売りされていました。

もちろん『とく』のように、焼きダレに浸けられていませんが、娘夫婦宅で焼肉タレの味付けをしてフライパンで焼いて食べると、期待通りにハズレ無く、美味です。

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ですが、激しく炎を上げて炙り焼くハラワタを貪り食う悪魔の気分は、『とく』でしか味わえないと思うのでした。

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香箱蟹が食べてみたい!

 香箱蟹(コウバコガニ)を捌いて盛り付けてみました。

漁獲される地方によって、『松葉ガニ』、『越前ガニ』、『ヨシガニ』、『タイザガニ』と、呼び名が変わる大振りなズワイガニは雄です。

比べてずっと小振りな香箱蟹は、その雌です。

身が多くて食べ応えの有るズワイガニは観光客に人気ですが、美味しいのは香箱蟹で、数年前までは地元民が安く食す為に、市場では控えめに、観光土産屋では殆ど、売られていませんでした。

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小振りな雌は『コウバコガニ』以外に、食される地域によって、『セコガニ』、『コッペガニ』、『メガニ』、『オヤガニ』、『セイコガニ』、『クロコ』と、美味しくなさそうな名で呼ばれ、ワザと不味そうな感じにさせて、地元以外への流通を避けていた感じがします。

最近は地元以外にも知られるようになって人気が出て来たのと、漁期が11/6~1/6前後と短くなった為に値が上がって来ています。

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細い手足に詰まった身は少ないですが、甘味が有ります。

オスのズアイガニの大きな足の身だけを食して、メスの香箱蟹のミソを知らないなんて、勿体無いですね!

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小振りな外見の中には、腹部から食み出す茶色の外子と呼ばれる幾つもの卵の房に、豆腐のような白身とオレンジ色をした内子の塊の味噌が濃厚な旨味でビッチリと詰まっています。

味噌を食べ尽くした小さな甲羅を盃にして飲む酒は、格別な味わいで堪りません。

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三杯の香箱蟹を調理(捌いて盛り付けた)して、大きな椎茸をソテー中。

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PS1:カニヒルの卵について

甲羅には偶に黒い粒々が付いていますが、それは魚の体液を吸い取るカニヒルの卵です。

カニヒルはカニの体液を吸いませんし、特に害は無いですが茹でて食すれば、より安心でしょう。

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PS2:香箱とズワイの名称について

雅な「香箱/コウバコ」の名は、『日本海の香り』を秘めた蟹だからとか、『甲羅で蓋をした香り箱』みたいとか、金沢弁の『小さくて早熟な可愛い女の子の意味のコウバク』が訛ってとか、『香り立つ高貴な方が食べた』からとか、『中の味噌が紅白』だからとか、いろんな語源が伝わっていますが、私的には、腹に「我が子を抱く」から故の「コヲダク」が北陸訛りに、「コウバコ」と聞こえたのだと思っています。

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 金沢に生まれ育っていますが、『コウバク』を日常会話で聞いた事が有りません。

早熟な発言や態度をする子を表現するのに、『あのザッカシイ子やろ』と言いますし、狡賢いは『はしかい』ですし、機転が利く事は『りくつな』です。

生意気は、『いさどい』や『じまんらしい』。

可愛いは、『あいそらしい』ですね。

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 「ズワイ」は、細い木の枝を指す古の言葉の「楚(すわえ、すはえ)」が訛ったらしいので、胴体を幹に、細く長い八本の足を扇状に広がる枝に見立てた、「松葉」と同じような縁起名なのでしょう。

因みに漢字表記の商品名は、縁起名らしくない「津和井蟹」と書かれるみたいです。

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上海蟹を初めて食べるまでの物語(蒸して、美味しく食べた!)

 初めて上海蟹を食べたのは、もう十数年も前になります。

広東省の龍華鎮の工廠での昼休みに、『会議室に蒸した美味しい蟹が有りますので、食べに来て下さい』と、上司に誘われて食べたのが最初です。f:id:shannon-wakky:20161222065238j:plain

会議室に入ると、二十人が対面する大きなテーブルの上に、赤く蒸し上がった蟹が五十杯は積まれた、湯気の立つ大皿が置かれ、更にガサガソと音のするダンボール箱が、テーブルの脇に八つ並べられているが見えた。

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大皿から三杯の蟹が皿に取られて、テーブル前まで来た私へ供される。

そして、私を会議室へ誘った上司が言った。

『これは、江蘇省の昆山工廠にいる事業群リーダーが、龍華工廠のリーダーへプレゼントしてくれた蟹です。中国では大閘蟹(ダァジャアシェ)と呼びますが、日本では上海蟹として有名ですね。この蟹を食べた経験が有りますか?』

上司は大皿から一つを掴み、私の前で赤くなった甲羅を毟り、胴体を豪快に真っ二つに割った。

『見えるでしょう。ここの黄色い味噌が、独特な味で、非常に美味いんですよ。台湾人も、中国人も、この大閘蟹は大好きです。そこの箱には陽澄蟹(ヤンチェンシェ)と印刷されてます。陽澄とは原産地の湖の名前で、ナンバーワンのブランドですよ。龍華の幹部達に食べて貰いたいと、リーダーの気遣いですね』

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オフィスの女子が開けたばかりのダンボール箱に近寄って中を覘くと、解凍し始めた保冷剤の間に蟹が二十匹以上も入っていて、冷蔵睡眠から目覚めた蟹達が体を揺すっている。

どの蟹も手足を折り畳んだ状態で、同じ色の縄にキツく縛られていた。

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『ああ、これね。攻撃的な蟹なので、縛らないと仲間の手足を切っちゃうんですよ。一本でも欠けるとブランドに成らないですし、送り主の面子も傷付きますね』

挟み爪の手に細い毛を、もっさりと生やしている乱暴者の緑褐色の蟹だ。

それまで、海の蟹とマッドクラブしか食べた事のない私は、初めて見る沢蟹をデカくして黒くしたみたいな蟹の味を疑った。

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眉間を寄せ首を傾げた私を察した上司は、ニッコリ笑って半分に割った蟹の一つを私へ渡し、残りの一つをカプッと咥えて黄色の蟹味噌を扱い出すように食べた。

『こんな感じの食べ方でいいんですよ。赤い内子に白身の肉も食べますが、赤いのの微妙な味に食べない人が多いですし、白身は食べる手間に比べて量は少ないから、みんなは黄色い味噌だけ食べて、後はポイッと捨てますね。そこが大閘蟹を食べる目的ですから』

その言葉に迷いが失せた私は、渡された半身に齧り付いた。

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ウニの黄色とは違う鮮やかな黄色は、黄金色のようにも、山吹色にも見え、口の中に広がる初めて味合う濃厚なる豊潤な旨味は、これまでの人生では無かった美味しさで、例えになる味が見付からない。

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この黄金の美味さで腹を満たしたい衝動に駆られた私は、供された三杯を二分も経たずに平らげてしまった。

上司は、食べ終わった私に言う。

『この蟹の美味しさを中国人が知ったのは、大体、四千年前です。中国最初の王朝、夏の国の人が食べたのですよ。紀元前二千年だったなんて、凄いです。よく見付けて食べたもんですよね』

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紀元前二千年の日本だと、日本列島は、出雲から庄内辺りまでの日本海側文化圏と九州から津軽海峡までの太平洋文化圏に分かれていて、共有生活圏の意識は有っても、国家の相互感覚や支配着想が、まだ無い縄文晩期と弥生早期の狭間の時代だ。

縄文人と弥生人は磯蟹や沢蟹を火を通して食べていたのだろうか?f:id:shannon-wakky:20161222071637j:plain

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以後、毎年の秋の旬にプレゼントされるだけではなく、いつか生きた大閘蟹を養殖の湖の生簀(いけす)から選んで買い、自分で料理して食べたいと望んでいました。

そして、四年前から私は、ルーツになった原産地の陽澄湖が近くに在る昆山市の工廠で勤務しています。

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下記は、伝承と史実に基づいて認めた、オリジナルストーリー、『大閘蟹を世界で初めて食べた物語』です。

 

大閘蟹を世界で初めて食べた物語

紀元前二千九十年晩夏、現中国江蘇省蘇州市東部辺り。

そこは、見渡す限りの大湿地帯だった。

我、巴解(バァジェ)は、十二人漕ぎの小船の船首に組まれた上背の高い人を二人、縦に連ねたよりも更に高い見張り台の上に立ち、見回す八卦(はっけ)の全ての方角は、二間(けん)以上の長さに生長した葦(よし)の草原と、溜まり水の見え隠れが続く中に、枝振りを広げた低木が4、5本寄せ合う林がポツポツと点在するだけで、じっくりと腰を下ろして休めそうな乾いた土地や岩場は何処にも見当たらなかった。

ただ、東方の地平線の彼方に岩山の頂きらしきを見付けるが、今日までのように、葦の原に入り組む水路の複雑な迷路は何十回も行く手を阻み、辿り着くのに数日は必要だと思う。

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我々が来た西方に昨日まで見えていた山の小さな連なりは、今朝から見えなくなっていた。

其処には、新田の開墾を任せる為に連れて来ていた農民の一部と警護の兵士の一部を残して来ている。

そして、彼らには砦を建て、山の麓を開墾して水田と作物を作るように命じている。

彼らは住まう場所を整備して、時雨が降って寒くなる前に、持って来ている食糧と育てた作物や狩猟の獲物で、自給自足できるようにしなければならない。

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新たな入植地を求める我々本隊も、北風の木枯らしが吹いて、どんよりと暗い鉛色の冬雲が流れて来るまでに、新天地に巡り遇って冬越しの準備を整える必要がある。それが叶わなければ、西方の山の小さな連なりへ戻り、来春に再び東方へ進出できるまで冬篭りしないと、帝(みかど)の命は達成できないだろう。

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此処まで来るのに三日も掛かった水路は池や分水路の多い迷路だった。

水路筋を探す為に何艘も偵察船を先行させたが、行き止まる多くの分水路に迷い、数艘の偵察船が今も戻って来ていない。

易経(えききょう)に熱く傾倒して信心する禹帝(ユウディ)は、政(まつりごと)の全てを八卦と陰陽(おんよう)の導きで取り計らっていた。

春の節目、豊年の元旦に、冬空の星の瞬きに憂いを感じた禹帝は、自ら創始した夏(シャ)王朝の行く末を占った結果、『震(しん)の方角が動き、雷鳴を轟(とどろ)かす龍に、足許が覚束(おぼつか)無くなる民は離反し、国の西部、中原(ちゅうげん)の地に集い興す新たな国朝は、夏を禹帝一代で滅亡させる』と読まれ、更に『災厄の祓(はら)う術は唯一、震の地に進みて豊かに繁栄さすれば、夏の国の存続は五百年』と解かれた。

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故に我は、主君の陽城を都城する夏国の禹帝に『彼の東の地を治水開墾して領土を増やし、夏の国を豊かにせよ』と、命じられ、未だ何処の民も治めていない長江沿いの大湿地帯を、帝から任せられた新田開墾の農民家族と漁場開拓の漁民家族、それに治水の土木技術者に警護の兵士達を乗せた三百艘の舟を率いて、先行させている偵察船が見付けた、開墾して暮らせるそうな土地を目指し、鏡のように凪いでいる水面を静かに進んでいる。

暫く行くと、向こう岸が遠くに見えるくらいの大きな池と、それよりも小さな池に挟まれた、そこそこに広い乾いた土地に着いた。

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彼の地の岸辺に葦は茂っているが、中は僅かに地面が盛り上がり、水気に悩まされずに船団全員が暮らせると上陸後の探索で確認した。

直ぐに全ての舟を岸へ上げ、全ての荷物を降ろして宿泊の設営をする。

翌日と翌々日は、降雨による洪水で浸水しないように設営地周辺の堤防土手と、視察した開墾候補地の用水掘りを計画し、作業工程を組んだ。

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そして四日目、晴天が続く間に工事を終えようと、昼夜交代の土木工事が開始された。

しかし、その夜、悲劇が起きる。

篝火や焚き火の灯りに引き寄せられた大きな蟲に兵士と開拓民が襲われて犠牲者が出た。

そして、蟲は切り刻んで倒した十数人を大きな池の中へ運び去ってしまった。

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夜が明けた現場で見た数匹の走り回る蟲と死骸の蟲は、広げた大人の掌より一回り以上は大きい厚い甲羅で覆われた胴体を持ち、細い爪先の八本の足で水辺の泥濘でも、乾燥した草地でも、安定した姿勢で素早く動き、とても人が捕まえたり、追い払う手足の動作では、蟲の動きに追い付けなかった。

大人の親指よりも大きいな鋭くて硬い挟み爪が付く、子供の握り拳くらいの大きさの両腕による攻撃は、人の皮膚を肉筋までパチン、パチンと切り取ってつまみ、食べていた!

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挟み爪の回りにびっしりと生える絨毛(じゅうもう)は、威嚇や攻撃ポーズで構える爪に、まるで武官の豊かな髭のように見え、獰猛で強固な戦闘意志を感じさせた。

足も、腕も、胴体と同様に鋭い角が立つ硬くて厚い甲羅で覆われ、素手で捕らえる事に成功しても、暴れる動きに掌を切られり、指を切断されたりした。

頑丈な体の構造は、踏み潰そうとしても効果は無く、逆に足に怪我を負った。

首筋や股筋を切られて大出血で殺された者や、手足の筋や神経を切られて動けずにいる者を、彼らの下に入り込んだ多くの蟲達が、まるで蟻がするように持ち上げて水の中へ連れて行った。

 

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この場所に上陸した日、前日まで午前と午後に二匹以上は水路で釣れていた、人ほども有る大魚や鰻が、早朝から一匹も獲れなくなった。

二つの池の上空に舞う鳥は無く、茂みに巣くうはずの水鳥の囀りや蛙(かわず)の鳴き声も聞こえて来なかった。

昨日の朝、偶々(たまたま)、遠くから飛んで来た大きな鳥が羽休めに岸辺に下りるのを見た。

その鳥の足をいきなり、近くに潜んで居た蟲が挟み爪で掴み、驚いた鳥は反射的に羽を広げて飛んで逃げようとした。

そこへ増援の蟲が次々と現れ、羽ばたいて飛び上がろうとする鳥の、もう一方の足を増援に来た先頭の蟲が掴むと、後続の蟲達は両の足から攀(よ)じ登って、重みで鳥を圧し倒した。

そして、虚しい羽ばたきを繰り返す鳥を水中へ連れ去った。

全ては一瞬で、『ああっ!』と呻くしかない間の非情な出来事だった。

鳥が引き込まれた水面に広がる波紋を見ながら、『蟲達は常に空腹で貪欲だな』と、全く危機感を感じないままに見ていた。

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釣れない大魚も、池にいない水鳥も、全てを蟲達が食べ尽くしていた。

その時に、蟲達の賢い凶暴性と貪(むさぼ)り喰らう暴食性の危険と脅威に気付くべきであった。

だが、我々の誰しもが、夏の国を豊かにする禹帝の命に叶う地に上陸する興奮で冷静さが薄れ、水鳥の非情な顛末から導かれる事態を予想していなかった。

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そして昨夜、篝火を焚いて突貫工事中の我々は襲われた。

ザザザッザーッと音と共に全方向から地面が揺れ動くように、何十万匹もの蟲の大群が泡を吹きながら襲って来て、明け方には寄せた波が戻るように、切り取った人の指や肉片に殺された仲間の屍も掴み、一斉に池の中へと退いて行った。

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我々の大勢が手足に怪我を負い、池へ運ばれて行方不明になった者は、とうとう死体も見付けられなかった。

後日に判明した事だが、大きな池の東側の広い水路の水は、海水が混ざる汽水で、蟲達の大産卵場だった。

そして、大きな池と小さな池は共に大繁殖の地で、蟲達は常に餓えている。

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餓えた蟲達にとって、我々は大量の餌で御馳走だった。

蟲達は我々を食い尽くすまで、何度でも必ず襲って来るだろう。

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夜、池から炎の灯りが見える範囲で火を焚くと、我々を食い尽くそうと蟲達が遣って来る。

我々は夜間の作業を止めて、蟲達を撃滅する対策を考え、防壁を築く工事を急いだ。

敵は八本足で素早く動き回るが、空を飛ぶ翼は無く、手足を含めた大きさは子犬ほどだから、蟲が乗り越えられない高さの垂直な防壁を巡らすだけで、我々に襲い掛かれなくなる。

それができれば、蟲の撃退や退治の遣り様も有る。

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船団の三分の二の舟を解体して、その木材で二十間四方の防壁を巡らし砦とした。

そして、内部には八間四方の外壁よりも高い土塁を造成して、上面の中央に井戸を掘って釣瓶で真水を汲み上げれるようにし、それから四面の縁には炉を並べて作り、炊事と足し湯の場にした。

高さ一間の外壁の外側には、半間の斜面の地を残して幅二間のV形の溝を掘って、外周掘りを作り防備の要とする。

V形の溝の斜面と底は、水路底の地中から掘り出した粘土を敷き詰めて固め、漏水を防いだ堀を水濠にした。

砦の周囲は、百間の幅で生い茂る葦などの草木を薙ぎ払って見通しを良くした。

濠の近くで掃った小枝や低木の幹、それに水路向こうの地からも集めた薪を燃やして、有りったけの瓶や鍋で次々と湯を沸かし、注いだ熱湯で濠を満たした。

満たすと湯が冷めないように、土塁上で沸かした湯を導水路で流して足す。

濠を熱湯で満たした頃には既に陽が沈んで、辺りに迫る闇の奥にザワザワと蠢く気配が強まって来ている。

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濠の外側に篝火を焚き並べ、焚き火もそのままに外にいた全員が砦内へ撤収し、武器を掴んで構えたのも束の間、ガヤガヤと全周囲の闇から払った草木を踏み付けて、篝火の灯りの許、見渡す限りが蟲の大群に覆われた。

迫り来る蟲達は濠から溢れ流れた湯に、一瞬、躊躇して動きを停めたが、より勢いを増して防壁に取り付こうと濠へ殺到した。

濠の湯は、防壁上の導水路から足され続ける熱湯で冷める事は無く、濠を渡ろうとする蟲は悉(ことごと)く己の堪えうる水温以上の熱水に動きを止め、濠の底へ沈んで死んでしまった。

先行する仲間が次々と濠に沈んで行くにも拘(かかわ)らず、泡を吹き、挟み爪を振り回す蟲達は、濠を越えようするのを止めようとはしない。

大量の蟲の死骸で埋まって行く濠は、蟲の冷たい体温で温度が下がり、熱の障害となる濠の役目を果たさなくなった。

死骸で埋まる壕から溢れ出て仕舞う熱湯への足し湯は、繰り替えしても直接浴びせる蟲以外を殺せなくなってしまう。

蟲達は水面上まで堆(うずたか)く積み重なった仲間の屍を渡って、一斉に砦の四面の防壁に取り付いた。

取り付くと重なる仲間の体を土台にして高さを増し、見る見るうちに防壁の高さに迫って来る。

それを、導水路の熱湯を掛けたり、槍で突いたりして崩す。

もっと高さが迫ると刀で切り払うが、全く休み無しで動き捲くる蟲達の増す高さに、返し刀が追い付かなくなっていた。

その時、濠の外側に並べられた篝火が全て倒され、切り払って炎天で乾燥された草木に火が放たれた。

全周囲へ燃え広がる炎は、直ぐに大火となって百間先まで焼き尽くして蟲達の後続を絶ってしまう。

迫る炎に後続の蟲達は池へ逃げ帰り、小山のように積み重なって防壁に取り付いた蟲は、チリチリと防壁板を焦がすほどの劫火(ごうか)の炎の熱に燻されて、全滅してしまった。

砦の中で防戦していた人間達は、大地が焼ける熱が冷えるまで、汲み上げた井戸水を被って堪えていた。

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夜明けの冷気に蒸せる空気が冷め、朝日が辺り一面を照らすと、我は土塁上に立ち、全ての包囲に警戒すべき気配を探した。

だが、目に映る全ての地面には無骨な緑褐色の蟲が、敷き詰めた赤い絨毯のように隙間無く、焼けて、茹だって、蒸してと、赤く変色した骸を晒していた。

我の眼下の全周囲には、少なくとも十万に近い赤い骸が転がっている。

一夜にして我々は、蟲達に食欲と攻撃欲を削ぐほどの甚大な損害を与え、この地を制圧していたのを知り、我が見る一面の赤い眺めに、昨夜は一人の部下を失う事も無く、蟲達に完全勝利した確信を得た。

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砦の外に出て、マジマジと観察した蟲の全体像は長江に棲む泥蟹に似ていたが、大きさが全く違って、ずっと大きい。

胴体部だけでも倍以上の大きさだ!

それに単独行動の泥蟹と違い、戦闘的な集団行動をしていた。

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泥蟹は清水で泥を吐かせてから、蒸したり、焼いたりして美味しく食べれる。

特に雌の胴体に有る美味な赤い内子と卵は、酒の肴として食が進んだ。

 そして、足許の熱湯の掘りで茹で上がった蟲と、焼けた葦の中で燻さされた蟲は、調理後の泥蟹と同じ、

美味しそうな紅色になって湯気を立てている。

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白色に近い明灰色の腹部の中央部分は、細い釣鐘の形と潰した握り飯の形をした二種類が見て取れた。

たぶん、釣鐘形は雄、潰した握り飯形は雌で、その形は卵を宿す為だろう。

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近くにいた部下の一人が、茹だった蟲達の死骸を眺める我の意に気付いたのか、一つを脇差の短刀で見事に両断して、茹で上がった熱さで手玉に取りながら、我の眼前へ差し出した。

立つ湯気の香りも泥蟹と同じ。

だが、雌だと思われる一刀両断した断面の身には赤い内子の他に、泥蟹には無い黄金色の味噌のような大きな塊りが有る。

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我は部下から片方を受け取り、黄金色を鼻に近付けて臭いを嗅いだ。

その匂いは、泥蟹と同じ香りがする赤い内子とは違う、更に深く濃い例えようの無い豊かな旨味を鼻腔の奥に感じた。

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無意識に我は黄金色の味噌に喰らい付き、気付けば口一杯に頬張って、広がる新たな香りと味に歓喜していた。

我は喉越しを楽しみながら口の中を空にすると、周りに集まって我の食中(しょくあた)りを案じる部下達へ叫んだ。

『此処の蟲は思った通り、蟹だ! 有りったけの茣蓙(ござ)とテーブルを持って来て、ここに敷いて並べるんだ! そして、茹で上がった蟲と焼けた蟲を置け! 強い酒も持って来い! それから醤油と酢もだ!』

我の大声に、察しの良い部下は塩梅を整えようと機敏に動き始めるが、大半は何の事やらと更なる我の説明を待っていた。

『ええい! さっさと用意しろ、この蟲は内子が旨いんだよ! 今から勝利の宴会を始めるぞ! お天道さんが真上に来て、蟲を腐らせるまで宴会だ! その後は、残りを池に捨てるんだぞ。酷い臭いなる前に大掃除だな』

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部下の誰もが美味いのかと疑いの顔を見合わせながら、勝ち鬨(どき)を連呼する。

『攻撃的な蟲は美味い蟹だった。茹で上がって初めて蟹だと、はっきり知ったから、大閘蟹とするぞ!』

『それに、禹帝にも食べて貰いたいと思う。残っている舟の数艘を籠生簀(かごいけす)用にして、生かせて陽城の宮廷へ運ぶんだ。是非、この旨さを禹帝に知って欲しいと、我は考える』

部下達から大きな歓声が上がる。

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『この砦が在る地は、我の城として、巴城(バアチャン)と命名する。蟲達が棲まう二つの池は、小さい方が同じく、我の池として巴城湖と名付け、大きい方は、これからの豊かな繁栄を我々に約束してくれるよう、陽澄湖の名にする』

『食べた蟲の殻は、細かく砕いてから田畑の土に鋤いて肥料にするぞ。今年中に開墾を済ませ、来年以後は、他の地も開墾しながら灌漑した水田で稲作を始めよう。そして、秋には、収穫した米と大閘蟹と巴城の特産品として、禹帝へ献上して民に振舞って貰い、強い夏の国の証とするんだ!』

我の激と豊かな富への期待に宴会は盛り上がり、真昼までのつもりが翌日の朝まで楽しく浮かれ、酔い潰れてしまった。

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夜通し火を焚いて、飲み溢しながら、喰い散らかしながら、千鳥足で歩き回り、酔い潰れて焼け野や葦の原で眠っても、大閘蟹達は襲いも、近寄っても来なかった。

大閘蟹は賢くて強い人間を天敵と恐れ、今後、二度と人を喰らう事が無くなったのを知った巴解は、心地好い酔いの夢現(ゆめうつつ)に想う。

 

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陽澄湖で獲れる大閘蟹の黄金の美味さは、中原世界の隅々まで有名を馳せ、大勢が食べて絶賛するだろう。

何千年後の未来まで、世界中の人達が巴城の街へ陽澄蟹を食べに来るだろう。

そして、語り継がれる我、巴解の『大閘蟹を世界で初めて食べた物語』を知るのだ。

-終わり-

 

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紀元前二千年、江蘇省の長江河口地域は上流からの堆積土によって、大小無数の沼池や葦の草原の湿地が島のように点在するだけで、沿岸線となる海原との境界は明確では有りませんでした。

太湖から上海市の一帯は、堆積と潮流による無数の堆積砂州が集まるだけの、長江や太湖の淡水に海水が混ざる汽水の水辺で、作物が育ち、人が住める塩害の無い乾いた土地は、何処にも有りませんでした。

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ただ、物語冒頭の巴解が東方の地平線の彼方に見た岩山の頂きらしきは、現在の昆山市内の亭林公園に聳える玉峰山(馬鞍山)という岩山で、有史以前から人が住みついて漁猟を生業(なりわい)にしていたとされる黄泥山遺跡が在りました。

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(黄泥山遺跡は出土品や生活跡を発掘されていましたが、中国考古学的に不都合になるのか、遺跡は近年、埋められて現在は亭林公園の正門と周辺広場に整備されてしまい、黄泥山遺跡の説明石碑と出土品は行方不明です)

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彼らは岩山の頂きが見える範囲で漁獲を行い、夕刻に戻らない仲間がいると、夜通し頂上で大きな火を上げて帰る道標(みちしるべ)とした事でしょう。

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巴解が治山治水のエンジニアとして仕えた禹帝は、現存する古(いにしえ)の歴史史書に名が残された最古の王朝『夏』《紀元前2100年頃~紀元前1500年頃》の初代皇帝です。

実際に伝承地から都城の遺跡が発掘されて、人口二万人規模の国家形態《二里頭文化》の存在が証明されています。

大湿地帯の開墾に成功した御蔭なのか、夏の国は十七代皇帝の人徳に欠ける(ジェエ)が、暴政で人心の離反を招くまで、四百七十年続きました。

最古の唯一の王朝なのに最高位の皇帝とは不思議ですが、幾つもの王国を征服して支配する皇帝の意味とは違い、中国史では、天の皇(ファン)《運命》、地の皇《大地と時勢》、人の皇《自身の性格》の三つの徳を持つ人物に与える最高の称号ですから、民に慕われて夏の国を豊かに繁栄させた人物なのでしょう。

夏の国を創始する前の禹帝は、舜帝(シュンディ)に仕える世襲制の治水エンジニアで、父が成し遂げれなかった黄河の氾濫と洪水を治めています。

舜帝は晩年に統治を禹に譲って亡くなっています。

この時勢と人徳に恵まれた舜帝は、先代の堯帝(ヤオディ)に二人の愛娘を嫁がせてまで人物を見定めさすほどの逸材でした。

堯帝に登用される前の舜は、家督を連れ子に継がせようと企(たくら)む異母と拐(かどわ)された父に殺されそうになりながらも、その全てを己の知恵で逃れ、それでも実父に孝行を尽くす息子でした。

登用された舜は、直ぐに堯帝から三年間の摂政で能力を試されますが、忠義や成果の無い官僚を一掃して、政は平穏に行われようになり、民は平和な生活が過ごせるようになりました。

この大いなる成果に堯帝は、以後の摂政を舜に任せて帝位を譲ります。

堯帝も民の安寧(あんねい)な生活を望んで尽力を尽くす、徳の高い帝で、それ故の瞬の登用でした。

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堯帝の先史は、中国中原の統治の祖、医術に長けた黄帝(ファンディ)《紀元前2510年紀元前2448年》になり、その前が神格の伏羲(フウシィ)女媧(ニュウワ)神農(シェンノォン)《いずれも顔は人、身体と能力は人外》の神話時代になります。

ユンケル黄帝液に名が使われるくらいの医術者の黄帝は、東洋医学の創始者とされる岐伯(チィバァイ)に医学を学んでいます。

黄帝の名は崇拝する後世の人々の姓に使われていて、中国の人々に黄の姓が多いのは、その所為なのです。

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しかし、中国最古の王朝とされる夏の国以前の、舜帝や堯帝や黄帝の統治は史実的に伝承されているだけなので、中原の地には、まだまだ知られざる遺跡や、古の国の名も読み解く事のできる遺物が埋もれているのかも知れません。

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上海蟹に纏わる巴解の伝承は、以上の様な太古を遡(さかのぼ)る史実に結び付くのには、驚きです。

少なくとも、堯帝からの因果を感じます。

 

注意:

原産地とされる陽澄湖で養殖される大閘蟹は、高級ブランド『陽澄蟹』として高値で取引されていますが、高価ゆえに違う湖や池で養殖されたニセモノが非常に多いです。

陽澄湖湖畔の巴城の街で食する大閘蟹や販売している大閘蟹でも、大半がニセモノと言われています。

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陽澄湖で獲る大閘蟹にしても、沖合いの生け簀や対岸からニセモノを運んで来ているとの噂が有ります。

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陽澄湖区域の隣接する池で養殖されている大閘蟹にも、養殖は名ばかりで他地方のニセモノを放っているそうです。

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陽澄湖は流入する河川域から水質汚染を防ぐ管理がなされているそうですが、それを保障する資料情報はネット上に見付かりませんでした。

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他地域のニセモノ養殖の湖や池の殆どでは、乱開発された多くの工業区が岸辺に在って、重金属を含む無処理の排水を流入させています。

重金属や毒性の強い有害物質は、発癌性以外に全身の筋肉痛、関節痛、浮腫みを発症させます。

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このような汚染の弊害は大閘蟹だけに限らず、河川や湖沼で獲れる蟹、魚貝などの全般に及びます。

なので、河川や湖沼で獲れる食材を大陸で食する場合、くれぐれも自己責任の覚悟を御願い致します。

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もし、大閘蟹を帝に献上していた巴解が現在の陽澄蟹を食べたとすると、絶対に水質汚染による余りの味の違いで激しく怒り、深く嘆き悲しみ、末裔達を酷く恨む事でしょう。

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くらがり坂の清水と加州清光の住い

この清水(しょうず)が在る『くらがり坂』は、金沢市内の文学的に有名な『明かり坂』や『暗がり坂』が在る浅野川沿いの廓街の情緒豊かな主計(かずえ)町ではなくて、犀川河畔の城南2丁目の河岸段丘を上り下りする『くらがり坂』です。

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地域の交流の場として金沢市はポケットパークの様に、金沢市城南2丁目40-1近くに在る『くらがり坂の清水』を整備したのですが、奥の湧き水場と左斜面が鬱蒼として暗いので、とても此処で急速する気にはなれません。

『くらがり』の名に囚われずに、湧き水の滴りの周囲と左右の斜面を現代的な明るいデザインに施工して、暗がりや覆う影を無くし、得体の知れない怪異や爬虫類が棲まうような雰囲気を醸し出さないで貰いたいです。

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この辺りが昭和40年代に区画整理されるまで、坂上の上笠舞の集落から犀川上菊橋袂の城南地区の集落まで、街灯は全く無くて、夜は月明かりや星明りを頼りに歩く、本当に真っ暗な道でした。

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小学3年生の時に城南2丁目の犀川の堰で黄昏時まで、暗くなるのに気付かずに遊んでいて、一緒にいた友達と慌てて帰った記憶が有ります。

月が昇り掛けの時刻、疎らな雲の流れが時折り星明りを隠す中、段丘の影になった暗い道を、道脇の小川の流れの朧な光を頼りに戻りました。

『くらがり坂』の清水で足を浸してから、早く帰ろうと坂道を見ると、両脇に茂る木々が夜空を隠して、路面は暗闇にぼんやりと仄かに見えるだけです。

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この道は、小立野台地上の上野町から下菊橋を渡って寺町台地へ行く近道なのですが、夜は真っ暗になるので、提灯や懐中電灯の灯りが無ければ、上笠舞の集落から人家の明かりが続く下笠舞の猿丸神社の方へ人々は迂回していました。

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当時は、現在よりも治安は良くなくて、強盗や人攫いの事件も多く、また得体の知れない物が徘徊していたり、神隠しの噂も有って、しょっちゅう親から気を付けるように注意されていました。

見るからに真っ暗な夜道の危険さと不安な心細さに、友人と二人で迷子になりかけて、泣き叫びながら亀坂(がめざか)の麓まで走ったのを覚えています。

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あの頃は、崖面からの白糸のように滴り落ちる水と、こんこんと崖淵から湧く水で、洗い場は豊かに満ちていて、辺りの路面は湿っていました。

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清水は主に作物の洗い場として使われていました。

坂下の道路右脇の際からも湧き出していて、道の両側は細い小川筋でしたが速い流れでした。

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小立野台地や笠舞段丘などの河岸段丘の斜面や際には至る所に湧き水の清水が在り、夏になると清水の周囲や清水から流れる小川沿いは、多くの蛍が緑の光の尾を引きながら飛び舞っていました。

ある夏の夜、立坂下に在る実家の背戸に面する斜面の竹薮の中に、仄かな緑色の光が集まるのに気付いて、昼間にその場所へ行ってみたら、新しい湧き水の溜まりを見付けた事が有りました。

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『くらがり坂』の清水は、犀川河岸段丘の一番下の河川敷に近い城南地域の平地の笠舞段丘斜面際にが在ります。

ここは笠舞段丘が二段になっている場所で、『くらがり坂』上の平地から更に坂を上がりば、亀坂下の平地になります。

亀坂下の平地を斜面沿いに山側へ進むと善光寺坂下に在る『大清水』に至ります。

亀坂の上は、天徳院が在る河岸段丘最上段の小立野台地上です。

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段丘上の宅地化開発によって浸透水が減少してしまった現在は、多くの湧水が枯渇して、再整備された『くらがり坂の清水』も、辛うじて湧き水の流れが見られるような状態です。

河岸段丘の砂礫層を浸透して来る清浄な湧き水は、通る水脈で洗浄された細かな砂と礫を運んで来て、洗い場だった小さな清水池の底に敷き詰めています。

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定期的に枯葉やゴミの除去や敷地の清掃がなされている事によって異臭や濁りも無く、水底に堆積した清浄な砂と湧き水の慎ましい流れは、クレソンと緑鮮やかな水蘚を群生させています。

(くらがり坂の湧き水は清浄ですが、水質基準的に生水での飲用は控えて下さい)

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清水のクレソンは食べられます。

因みに食するクレソンには、血圧上昇を抑えるのと脂質代謝を促進、そして老化防止の効果が有ります。

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PS 1:

笠舞の地蔵尊(金沢市笠舞2丁目21-11辺り)

クランクに曲がる『くらがり坂』の上り切った河岸段丘から、更に亀坂下の河岸段丘へのS字に曲がる坂の上り切る直前の角には、地蔵が並んでいます。

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藩政期には、地蔵尊が在る坂を上り切った所から亀坂下まで罪人の処刑場が在り、坂を上り切った右手の笠舞第1公園辺りから河岸段丘縁までは、飢饉や災害で貧窮して生活が立ち行かなくなった者達を救済する非人小屋が在りました。

非人小屋は別名、御救(おすくい)小屋と呼ばれ、故に加賀藩領内では『非人』は士農工商に含まれない卑しい扱いの『被差別民/賤民』を指す言葉では有りません。

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非人小屋には士農工商の身分に含まれない、人々が忌み嫌う卑賎な生業の者も収容されて、『皮多/かわた』、『藤内/とうない』の括りで区別されていましたが、露骨な差別は有りませんでした。

(石川県や富山県の年配者が小さな生活地域を現す言葉で、よく『部落』を口にしますが、これは『村集落』を示す事で、他地域で用いるの差別言葉では有りません)

城南中学校裏の河岸段丘縁には屠殺場が有って、『皮多/かわた』の人達が従事していました。

物乞いをする乞食達も、加賀藩は非人小屋に収容して鑑札制で管理統率していました。

故に、人に非ず身分の人達や無届け移住者まで検めて管理していた加賀藩の藩領には、正体不明者は存在していませんでした。

f:id:shannon-wakky:20161008050703j:plain刑場で処刑された身寄りの無い罪人、非人小屋で亡くなったの身寄りの無い住人、飢饉や災害で亡くなった身内の供養の為に、刑場や非人小屋の周辺に点在して納められていた地蔵菩薩を集めて祭ったのが、笠舞地蔵尊です。

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 敷地6000坪以上(現:金沢市笠舞1丁目の北西側半分)、20軒長屋が45棟、収容2000~4000人の非人小屋は、災害で仕事場を失った職人達も居て、木工品、鉄工品、縫織工、などの日用品全般の製造及び、各種工芸品の製作が行われていた、衣食住を加賀藩から保障される職業斡旋所、職業訓練所、売り上げ歩合から賃金も支払われる職場と生活のシェアライフ地区でした。

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小立野台地上から見た非人小屋が在った辺り。現在は住宅が建ち並び、清光の碑以外に痕跡は無し。

 

山手側奥の涌波村の大道割近くには塩硝御蔵(土清水/つっちょうじ製薬所)が在りましたから、藩政期末頃には、小立野台地上から浅野川縁の田井町へ下りる牛坂(うっさか)の際に在った上野村弾薬所(現、坂下り際から石川県警察学校が在る一帯)へ運ばれて火薬にされた一部を使って、線香花火を非人小屋の製造所で作り、それを富山の薬売り達が加賀藩塩硝の販売サンプルとして、外様各藩の重役や豪商へ運んでいた事でしょう。

(加賀藩製の塩硝を用いた線香花火は、発色の良い火花が多く飛び散り、火玉が落ち難く長持ちして、人気が有った)

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犀川対岸の寺町台地上から見た非人小屋や刑場が在った辺り。建ち並ぶ住宅で、河岸段丘の判別が難しい。

 

PS 2:

非人清光の碑(金沢市笠舞1丁目5-15の角)

話は変わりますが、アニメ『刀剣乱舞』の歴史改変を防止する刀剣男子のキャラに加州清光というのがいます。

刀を擬人化したキャラで、『清光』は刀の銘です。

この清光を使うのが沖田総司で、史実は他人の騙りの『菊一文字則宗』でなくて、池田屋騒動まで『清光』でした。

(池田屋で刀身に亀裂が入って修理不能になった以後も、別の『清光』を帯剣したらしい)

池田屋で折れた『清光』は、加州の名の通り、加賀藩金沢に住む刀鍛冶師の清光が製作した細身の直刀っぽい日本刀です。

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十二代続いて刀鍛冶を相伝した清光は、太平の世で依頼が無くて生活に貧窮した六代と七代が、金沢市の笠舞に加賀藩が設けた生活救済施設の『非人小屋』に住み、細々と刀鍛冶を続けています。

それ以降、『清光』の刀銘は別名『加州清光』に加えて『非人清光』と呼ばれています。

『非人小屋(御救小屋)』は、金沢市の実家近くに在りましたが、区画整理される前の子供の頃の記憶では、その辺りは既に遺構も無く水田と果樹園が広がっていました。

非人小屋での加州清光の住まい兼鍛冶場が在ったらしき場所には、現在、日本美術刀剣保存協会金沢支部と東京国立博物館工芸課の方々が製作したモニュメントの碑が有ります。

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モニュメントの銘板部分には、石板の罅割れの修復か、石板から銘板が剥がれたり、盗難されるのを防ぐ為か、当初には無かった3本のステンレス製の帯が巻かれていて、銘板の中央の帯が、折角の銘文を読み難くしています。

(安価で施すには、帯びが銘文を真横に跨ぐ様な安易策しか、できなかったのだろうか?)

因みに『清光』の一振りは東条英機の愛刀でした。

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河岸段丘最上段の小立野台地上に辰巳用水が完成したのが、1632年寛永9年)。

非人小屋(御救/おすくい小屋)が開設されたのが、1670年(寛文10年)。

生業の仕事が極薄で日々の暮らしに窮乏した六代目の上刀鍛冶、長兵衛藤原清光の一家(長男の長右衞門と弟の八兵衞)三人を、1675年(延宝6年)には加賀藩が窮民救済で広大な御救小屋の一角の匠区域に収容していますから、安定した浸透水で水量が増えた笠舞大清水から引いた水や、3~5mも砂礫層を掘れば豊かに湛えるようになった井戸水が、鍛冶の焼き入れにの冷水に使われていた事でしょう。

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1687年(貞享4年)に六代目の長兵衛清光が亡くなった後、非人小屋を出た七代目の長右衞門清光も直ぐに生活が貧窮して1688年(元禄元年)に、再び非人小屋に戻っています。

七代目の長右衞門清光は1723年(享保8年)に他界。

息子の八代目長兵衞清光(1754年/宝暦4年没)以降は、小立野台地上(現:金沢大学付属病院付近)に居を移し、上クラスの刀鍛冶として生業を継いでいます。

下刀鍛冶身分の六藏守種も1684年1687年(貞享元年から4年)の間に非人小屋へ移住して加賀藩に救済されています。

(当初は従来の仕事場と非人小屋の鍛冶場を住み分けていたのか、正確な移住年は不明です)

貞享の後は、天下泰平、庶民文化満開の元禄ですから、刀造りの仕事は極めて乏しくなり、中クラス、下クラスの刀鍛冶は日用刃物で稼ぐしかなくなる頃です。

 

PS 3:

文学的な金沢市主計(かずえ)町の暗がり坂と明かり坂

茶屋街の重要伝統的建造物群保存地区とされている浅野川大橋の南西河畔沿いの主計町と、橋場町交差点近くの『爪先上がりの小路』の坂を上がった下新町を繋ぐ階段坂が、暗がり坂と明かり坂です。

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爪先上がりの小路の坂上から橋場交差点方向を見る。

 

どちらの坂も明治期以後、泉鏡花、木倉屋銈造、国本昭二、五木寛之の文豪達の著作によって有名になり、金沢市の観光スポットを代表する一つです。

(湯涌温泉滞在中の竹久夢二が招かれる浮世話とか、徳田秋聲や室生犀星の行きがかり物語などは無かったのだろうか? ……でも、犀星なら広小路の石坂/いっさか:西の茶屋街だったんだろうなあ)

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暗がり坂の上り下り。

 

日の出から日没まで陽に照らされる坂上の現世と、昼過ぎから黄昏時みたいに薄暗さが漂い始めて、夕刻には闇に沈み誘蛾灯の灯る坂下の異世界は、二つの曲がり折れる階段坂で隔たれています。

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明かり坂の上り下り。

 

階段坂は曲がり折れる場所で、覗き見る異世界に畏怖を、振り返り見る現世に未練を、思案する坂の様に感じさせます。

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行きつ戻りつの葛藤などせず、下りて異世界の狭間で浮かれ惑うのも好し、上がりて平穏無事の柔らかな緊迫も良しです。

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