遥乃陽 diary

日々のモノトニィとバラエティ

世の中は感動と憂いに満ちている。シックスセンスが欲しい!

三日間の幸福 未来はHappy endに変えられる

ライトノベル『三日間の幸福』(出版 メディアワークス 書籍サイズ:文庫)の紹介です。

電波加減が素敵な著者は『スターティング・オーヴァー』の三秋縋さんで、読み易い文体とストーリーセンスが好きす。

初版発行が2013年12月25日X'masの作品。

X'masは遣り直しが上手くいって新たな未来がスタートする日ですね。

 

死に至る直前に気付けた幸せは、死する瞬間まで維持されて死を自覚したのでしょうか?

プロローグの例えの質問で『なにか』が売るように求めたのは、質問した先生が受け持つクラスの小学五年生達個人の残りの寿命の半分だったのでしょうか?

『なにか』は交渉相手の寿命が分かるという前提で、交渉時点で知る相手の人生の半分ではなくて寿命という時間の長さの半分を求めたの理解で良いのでしょうか?

人生の半分ならば、『なにか』は交渉相手の過ごす人生も読めるという事になりますが、人生を半分に出来る定義は至難です。

交渉相手の十歳の子供が七十歳まで生きるとして、残りの六十年間の前半分の三十歳までをパラサイトした『なにか』が使い、パラサイトされた子供は『なにか』が出て行った後の『なにか』の使われた人生前半に大いに影響された三十年間の余生を送るとなるので、厳密な人生の半分にはならないですね。

時間なら交渉相手を死に至らなければ、交渉結果の時間内で衣食住付きの奴隷として扱えるのですが、奴隷だと『なにか』が求めている『成る』のとは違ってきます。

健康の取引だと、移植可能な臓器などの肉体の部位が対象になるのでしょうか?

健康を失い病勝ちになりながら生き長らえる、大半を無くして床に臥せながら寿命を全うする、得られた報酬で自分の健康は取り返せない……、そんな重いリスクが有るのに取引をするのは、自己犠牲を必要とする理由が有るからかも知れません。

それで、時間でも、人生でも、健康でもなくて、求めるモノが寿命になっちゃうのでしょう。

『なにか』が求める三十年の対価は、十歳の子供でも可能性が在る時間としての寿命じゃなくて、寿命が尽きるまでの内容を換算した値になるのだろう。

例えば、将来に大学を卒業してもニートのヒッキーで、衣食住や欲しい物は全て親に宛がわれて、老後は生活保護を受けての孤独死するまでが見えてしまうのでしょうか?

それでも、査定がゼロやマイナスだと取引にならないですから最低額の対価となるのでしょうか?

そして、寿命が半分になったと認識した子供は人生内容がリセットされるのだろうか?

『なにか』が交渉で得た寿命は、内容がリセットされて書き込み無しの寿命時間になるのだろうか?

『最低額の対価』だけど、そんな他人評価の最低人生でも、個人として尊厳を持ち、その状態と状況を望み、日々を嬉しい喜びの楽しい気分で過ごすなら、他人視点のプラス・マイナス査定とは掛け離れた価値を持つのではないだろうか。

望まなくて浮き上がろうと足掻き続けても、思惑と現実のギャップで陥る気持ちの沈み込みと被害意識に病む心と身体に遣る気は失せ、全てが他人の所為の悲嘆に喘ぐ日々ならば、査定が最低額になるのを理解して自覚すべきだろう。

それに、自分の生き様は波乱万丈と思い返せても、己で『太い人生』と意識できないだろう?

などなど、勝手に疑問と妄想を膨らませています。

 

もう、十数回は読み返している『三日間の幸福』は、読む度に興味深さが補完されて楽しめます。

『スターティング・オーヴァー』同様、『三日間の幸福』の主人公も自虐のマスターベーションさが好い加減で描かれていて嬉しいです。

無愛想『ミヤギ』は、アニメチックなツンデレセリフから十五、六歳なイメージで、まあ、生い立ちから二十歳くらいでも幼さが残るのだろうと思いますが、ビジネスライクに有りかもと面白いです。

 

未来は、これから読む物語のように、今から観る映画のように、既に起承転結が描かれている時間をトレースするのではなくて不確定で、モチベーション次第で明るくも、暗くもなるでしょう。

明るい未来にするには、それに至るモチベーションを得る為の情報が不可欠です。

希望の有る明るい未来への可能性が有る情報を現在や過去に求めて、心を満たさなくてはなりません。

それは『今』や『現在』が『満たされた』ではなくて、『満たされる』で積み上げて行くのです。

明るい可能性の情報で満たされる心は幸せと安らぎを感じるでしょう。

でも、その幸せを『必ず死ぬ』や『死ぬに決まっている』などと交換して得られるのは、納得できないですね。

前作の『スターティング・オーヴァー』も、『三日間の幸福』も、二十歳を区切りとされていますが、作者は成人定義の二十歳に何かしらの心理的な抱えているモノが有るのでしょうか。

厭な事は多くても、怖いモノが何も無いと錯覚していた私の二十歳は、静岡の日本平の麓で炊事、風呂、トイレが共同の四畳半一間のアパートに一人暮らしをしていて、単気筒500ccのトレールバイクで赤と青のツインスターの会社へ通っていました。

そして、身体の障害と仕事の難度に不安で不自由さと能力とセンスの無さを嘆きながら、いつも安らぎと新鮮な美しさと極められたエッジの先端に宿る神を求め続けていましたねぇ。

だけど、それは短絡的にスピードメーターが振り切れそうなくらい飛ばしても、ルート・ワンや伊豆半島を一晩中走り回っても、モノクロのツートンカラーの車やホワイトなバイクでレッドな瞬きとスピーカーでがなられながら追い掛け回されても、人を痛めても、自分が痛め付けられても、得る事はできなかったです。

PS :

数年も貧乏生活をしているのなら、自販機で300円もする天ぷらソバは食べない。

スーパーでもカップ麺は買わないし、ファミレスへも、コンビニへも行かないし、タバコも吸わない。

酒は百薬の長だが、煙草は百害有って一利無しだろう。

それすらも贅沢と気付けずに人生を嘆く主人公は、最低野郎だ!

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