白山市吉野谷の工芸の里に、こんもりと鎮守の森のような姿で茂る御仏供(おぼく)杉です。
樹齢670年の空へ向かって根を張るような枝ぶりの裏杉で、樹高は24m、幹周は7.2mと有ります。
伝承では、京都の寺で修行していた大陸(元)に渡った高僧が帰国後にここの山中に祇陀(ぎだ)寺を開山しましたが、肥後国へ招く領主の菊地氏に懇願されて吉野谷を去るにあたり、「この杖が根付いて繁茂すれば此処は仏法が盛んになるだろう」と、地に挿した杖代わりの杉の小枝が大きく育った姿形から御仏供杉と呼ばれたとされています。
御仏供杉の名は、オムスビ形の三角錐の枝振りから仏前に供える御仏飯の「おぼくさま」に見立てて、御仏供杉になったそうですが、170年後、この地を戦国の世に百年近くも支配した加賀一向一揆の信心深い門徒衆には、雲龍山の山壁や周辺の田畑が落葉や枯れ野になる晩秋から新春の色を背景に杉の常緑の枝振りが映えて、御仏供杉が御経を唱える高僧の姿に、雪が降り積もった様は大きな「おぼくさま」をリアルなイメージにしていた事でしょう。
当時は寄り添うように纏まっていただろう枝振りが成長するにつれて離れて行き、高さも揃った今では一本の木なのに森のように見えています。
祇陀寺は現在、御仏供杉近くの雲龍山の麓に跡地らしき場所が有るだけです。
大陸帰りの高僧が大智禅師、朝鮮半島経由の帰国で潮流に流された船が着いたのは宮越(現、金沢市金石町)の港、大智禅師の生誕地は九州肥後の国、菊池氏は肥後の国を中心とした九州の一大勢力。
鎌倉幕府が衰退してきて朝廷寄りになった菊池氏は、所領地出身で大陸帰りの高僧を知り、その法力の加護で一族の繁栄を得ようと高待遇で帰郷させると、約束通りに聖護寺を創建して一族を禅宗に帰依させました。
更に、大智禅師を敬う菊池氏は廣福寺も建立していますから、伝承は、ちゃんと歴史として繋がっている中のエピソードになっていますね。
PS:
我が家では御仏飯を「おぼくさま」と言わずに「ごぼくさん」と言っています。
御仏供の読みは「おぼく」の他に、説明板のルビは「おぶく」、その下の黒御影石には「おぼけ」とルビが彫られて、整合というか統一しないのでしょうか?
吉野谷や鳥越に代々住まう地元の人達は、何と呼んでいるのでしょうねぇ?
参考:
年代的に、大智禅師(1290年~1367年)は1314年に大陸へ渡って1324年に帰国。
肥後への帰郷が、たぶん1333年頃で、聖護寺は1338年に創建されて、その年に宗家の末永い纏まりと繁栄を願う菊池武重は内紛を憂いて、一族を禅宗に帰依させています。
廣福寺の建立は1357年とされていますが、帰依しても内紛が治まらない菊池氏に嫌気の差す大智禅師は、有田氏に招かれて1353年に肥前島原へ移り、水月山円通寺を創建しています。
肥前島原へ招かれるのと廣福寺の建立に4年のダブりが生じていますが、1330年に廣福寺を建立したとする説も有るので、もう少し建立が早かったのかも知れません。
それに、当時は南北朝の戦乱で、菊池氏と有田氏は共に足利幕府を敵として共闘する南朝側でしたから、互いの領地を行き来するのに、さして支障が無かったと考えられますし、まして両領主の師である高僧の大智禅師は自由に往来できていたのでしょう。