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遥乃陽 diary

日々のモノトニィとバラエティ

世の中は感動と憂いに満ちている。シックスセンスが欲しい!

金石の砂丘(石川県金沢市の金石北と大野町)

初めて金石の海へ行ったのは、高校一年生の春でした。

弓道部のトレーニングで週に四日は畝田町の工業高校から、金石街道を一年生の初秋で廃線となった北陸鉄道金石線の電車が追い抜いて行くのを睨みながら、くたくたになって金石の浜まで走りました。

中学校では入部した剣道部が顧問先生の転勤で、あっさりと廃部になってから二年間も体育の授業以外にスポーツをしていない身体は、ランニングやトレーニングに慣れるまでの一学期の間中、毎回、渚に突っ伏してしまい、その度に引き摺られたり、蹴られたりして先輩達に無理矢理起こされていました。

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体格と体力を作り、射法八節の競技姿勢を整えるトレーニングを繰り返し行った、金石町から大野町の金沢港口までの直線道路が通る護岸提の下の砂浜は、流木と生活ゴミが多く、季節によって多少の違いは有りましたが、広いところで50m、狭いところでも20m以上の砂浜が続いていました。

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砂浜から護岸提上の道路へ上がると、道路向かいにはニセアカシアとクロマツの林で覆われた高さ10m余りの土手のような盛り土が、道路と平行に金石の町の人家の外れから大野の灯台裏まで続いていて、その海側の浜茄子と浜顔の群生が点在する砂地の斜面から、人工的な防砂の土手ではなくて自然に形成された砂丘だと分からせていました。

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砂が頂上まで剥き出した金石の町に近いところでは、海風に吹かれて移動する砂丘に呑まれたニセアカシアの立ち枯れした白い幹が林立していて、どこか異世界ぽかったですねぇ。

そこではトレーニングを兼ねて、缶蹴り遊びもしました。

先輩も、後輩も、関係無く、時間を忘れて夢中で砂丘を走り回って、いつもなら大野の灯台下を折れて学校へ戻るコースを、金石で止めてUターンしていたという、部活の楽しい思い出での一つです。

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立ち枯れしたニセアカシアが残る砂丘の頂きから海原を眺めるが好きで、夏場のいつまでも落ちようとしない斜陽、春の金波銀波の波間と黄昏色に染まる不思議な金石の通り、秋の日本画のような深紅の夕陽が融けるように沈む艶消しの海や朱色に染まる空、冬場の戻りコースで見上げた水平線の彼方から迫る真っ黒な山脈みたいな雪雲など、金石や大野へ行く度に多くのフルカラーの思い出が匂い付きで蘇ります。

そして現在、金石の砂丘の砂地は草にすっかり覆われてしまい、増えたクロマツや育ち始めた笹にニセアカシアは減り、見目は造成した盛り土の土手で全く砂丘だと分からなくなってしまいました。

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一部は『やすらぎの森』として風致区の公園整備が成されていますが、陸側の一部は宅地にされました。

広々としていた砂浜は、1965年に完成した犀川ダムの影響は少なかったのですが、1974年に犀川の支流の急流に造られた内川ダムによって土砂の流入が減り、更に1979年に完成した手取川ダムが白山流域から日本海へ運ばれていた手取川系の土砂を激減させた為に、年間7mの砂浜を波浪の侵食で失い続け、1990年代前半には、とうとう大野川河口部を僅かに残して砂浜は無くなりました。

そして現在、1996年から2015年の工期で行われている海へ340m~600m近くも張り出した埋め立てで、もう浜では無くなってしまいました。

それでも、流入土砂の自然体積部分とされた犀川河口の金石側の1/3の区間は、何れ埋まってしまうでしょうが、弓なりの砂浜が形成されて、ビーチのような景観になっています。

金石町の海原地区となる埋め立て工事が完了し、護岸提上だった道路なども整備し直されてしまうと、砂丘も公園区画以外は崩されて、内灘の砂丘のように宅地や商業地へと変わって行く事でしょう。

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思い出のお気に入りの場所が、利便を求める時の移り変わり故に失われて行くのは、悲しくて寂しい事です。

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過去の金石の海岸とお宮について:

金石の町は近代まで宮腰(みやのこし/みやこし)とも呼ばれていて、金石近くの高校へ通っている頃は、よく耳にしました。

金石の南隣の寺中町に猿田彦を祭る大野湊神社が在ります。

天照を祭る古の社に合祀しての創建は727年ですが、1252年に火災消失で宮腰(現在の金石)から東へ八丁離れた場所の、同じ大野庄内の離宮が在った現在の寺中の地に移されています。

当時、湿地帯の中の洪水でも島のように残る周囲より僅かに高い乾燥した離宮八幡の土地が選ばれたのには、貰い火による火事を防ぐ目的が有りました。

大野湊神社の場所を移す遷御は三度目で、寺中の地へ移る以前は犀川河口近くの町外れに在ったと思われます。

場所は1260年頃に、火伏せの神が祭られて創建された秋葉神社辺りだったのかも知れません。

合祀された創建時は、佐良獄(さがらだけ)と呼ばれた砂岩の山が、現在の『かないわ病院』の在る普正寺町の犀川河口南岸から突き出すように小高く聳えていて、その山頂の真西を向いた社に祭られていました。

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その頃の加賀から河北潟への広大な平野は、多くの湖沼が点在する大湿地帯で、頻繁に氾濫して蛇行する河川は河口も定まっていませんでした。

故に、佐良獄が存在した頃の犀川の流れは、現在のように金石の町を隔ててなのか、専光町の南外れから海へなのか、もっと南の白山市倉部町へ至っていたのか、分かっていません。

河口が何処にせよ古からの港町の金石は、海辺に聳える佐良獄の麓を人の腰に例え、頂にお宮を祭る山の腰に栄える町で宮腰と呼ばれていました。

犀川と大野川に挟まれた金石の海岸には、大湿地帯と手取川などの加賀地方の河川から土砂が今よりずつと大量に沿岸流で運ばれて、安原の砂丘と共に現在の内灘砂丘に匹敵するくらいの砂が高く堆積した砂山の広がりで、大きく海へ張り出していた事でしょう。

以後、乾燥して行く平野と変化する潮流に、海へ突出していた佐良獄は削り崩され、張り出していた金石砂丘は大きく流失されてしまったのです。

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現在に残る金石砂丘は、陸側のほんの一部だったのかも知れませんね。

勧進帳で有名な安宅の関が在った加賀の砂丘群、かつては丸い大きな石ばかりが転がる広大な松任の砂利浜、平家が陣を張った戦略要衝の佐良獄と金石砂丘、その北側の粟ヶ崎町から羽咋市まで長く続く内灘砂丘は、越前から能登へ至る古からの重要な交通路でしたが、乾燥していく平野に水田が増えて街道が整えられて行く戦国時代後期には、内灘砂丘以南の浜辺は流失して狭まり、やがて浜から運ばれて来る砂の量が飛び散らされる量より少なくなると、徐々に砂丘群は低くなだらかになってしまい、江戸期初めには人々や産業の往来が発達した土木技術で整備された街道へと移って行きました。

旧国道八号線は、加賀の平野部に整えられた北国街道、加賀地方の海沿いを通る北陸自動車道は、古代の砂丘や浜辺を伝う北陸道と道筋がほぼ同じです。

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平盛俊が佐良獄に陣を敷いたのは倶梨伽羅峠の戦いの1183年、火災消失による大野湊神社の三度目の遷御が1252年、1183年の佐良獄がどのような状態だったのか知り得ませんが、以後、僅か70年程で、佐良獄は崩れて消滅して行き、大野湊神社は金石の町へ遷御された後、火災で消失した事になります。

近年の1年間に7mも砂浜が消えた金石の浜以上の流失現象が起きたのです。

当時、離岸提や人工リーフなどの発想や工事技術が無くて、自然が安定させるまで為す術は有りませんでした。

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大野湊神社の大野は、大野庄/大野郷で、湊は、外港機能を共に持つ宮腰と大野の港の事です。

現在地に移った後に分社した神社が、金石砂丘の南端近くの住宅地に『西の宮』、普正寺町の『かないわ病院』脇の海側町外れに『西ノ宮』、普正寺町の南隣の専光寺町のグラウンド近くの防砂林際に『西之宮』の微妙に違う社号で、大野湊神社の西方の地の広範囲に鎮座しているのも、古からの影響力が如何に大きなモノだったかを伝えています。

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『やすらぎの森』傍の大山昨の山の神と大物主を祭る大野日吉神社は、創建が860年ですから大野湊神社と同様に租庸調以前の古から開かれた外港が在る重要な地を統べる戦略拠点だったのでしょう。

両神社は、布陣の地と源氏の軍勢に焼かれた、謂れの有る由々しき宮です。

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--- 金沢市くらしの博物館展示資料の写真考察 ---

1966年(昭和 41)7月に内灘砂丘最南端の粟ヶ崎地区から見た金石砂丘の北端(大野町側)です。

暈やけてはっきりしない白い大野灯台の背後に見える小高い丘のような砂丘は、現在よりも高い感じがしますね。

既に金沢港造りの浚渫工事が始まっていて櫓やクレーンが見られます。

金石砂丘と内灘砂丘を隔てるのは河北潟から流れる大野川のみだったのですが、国際貿易港として大野漁港の奥の大野川を広く深く拡張して金沢港が築港(12か年計画:1964年~1978年)され、更に大野川河口北岸の醤油醸造所の北側の砂丘を掘って新たに広い港口が造られました。

白い体操服姿は粟ヶ崎海岸へ海浜遠足に来ている金沢市内の小立野台地に在る紫錦台中学校の二年生か、三年生の生徒達で、女子の多くは夏の陽射しを避けて日傘を差しています。

市電の廃止が1967年2月なので、下石引から市電で金沢駅へ行き、そこから北陸鉄道の浅野川線に乗り換えて夏場だけの終点の粟ヶ崎海岸駅(金沢市粟崎町4丁目の浜側辺り:1972年/昭和47年8月31日が最終運転)で降りているのでしょう(それともバス遠足?)。

写真の辺りは今も砂地ですが、五郎島金時の芋畑になっていて無造作な立ち入りはできません。

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