遥乃陽 diary

日々のモノトニィとバラエティ 『遥乃陽 diary』の他に『遥乃陽 blog 』と『遥乃陽 novels 』も有ります

世の中は感動と憂いに満ちている。シックスセンスが欲しい!

べちこ焼きって三色の氷室饅頭と似てるかも (海羽空市の焼き菓子と金沢市伝統の暑気払い饅頭)

先日観ていたアニメ「それでも町は廻っている」のエピソード九番地は、食べた御菓子が凄く美味しくて製造元まで買占めの大人買いに行こうとするストーリーでした。

その御菓子の名は『べちこ焼き』、カラフルな見た目で直ぐに連想したのが、湯涌温泉へ行く度に買って来ていた三色の『氷室饅頭』でした。

そっくりな外観ではないのですが、カラーリングのイメージがダブりまして、オーバーラップのトラウマを避ける為に着色画像を作ってみました。

群青色はさすがに食欲が失せそうなので、青紫にしましたが、それでも……。

ベースが饅頭なので、中身は漉し餡をやめて、しっとりクッキーの抹茶味をサンドにした焼き菓子とのハイブリッドにしてみたです。

これで一応は焼き菓子風味になると思うのですが、なんか、『べちこ焼き』っぽいよりも『秀美乱/ホビロン焼き』になってしまって、味は兎も角、全然買って貰えそうにないです。

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『べちこ焼き』の製造元は『毛利屋』です。

『毛利屋』が在る海羽空市の市外局番は047で、千葉県の大半が該当するのですが、千葉県に海羽空市は存在しません。

お気に入りの『べちこ焼き』が『毛利屋』の店仕舞いで無くなると知ったタイムリサーチャーは、大人買いした『べちこ焼き』を現在を含めた過去に配り撒いて『毛利屋』が存続してくれるかを検証した、時空干渉するシュタインズゲートみたいにタイムパラドックスな、三百年も未来のSFでした。

結果は大人気になって多くの菓子メーカーが製造していました。

『べちこ焼き』は大人気に化けていましたが、過去から派生する様々な事柄は重大なバタフライ効果の結果を招いていそうな気がします。

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それ故に、『風ヶ丘飛鳥』先生の奇想天外ミステリー小説、『シャッフル都市』を文庫本で読んでみたくなりましたね。

あと、『門石梅和』先生の荒唐無稽小説、『雲丹飛行船』も。

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PS:

氷室饅頭:

金沢市では加賀藩の頃から、陰暦六月一日を氷室(ひむろ)の朔日(ついたち)と言い、『氷室饅頭』を食べる風習が有ります。

この『氷室饅頭』の起こりは、加賀藩藩主の前田家が天正12年6月朔日(1584年7月1日)に金沢城内で

京都宮中の賜氷の節に倣って始めた吉例のお祝いの氷の催しの雪を模して、享保年間(1716年~1724年)に片町の生菓子屋、道願屋彦兵衛が創案したされています。

吉例とは陰暦六月朔日で、夏の正月の事です。

新しい年を迎えた元旦の冬の正月に、前半を無事に過ごせた感謝と後半の平安と稔りを願う夏の正月。

暑気を払い、気持ちを新たにする後半へのリセットで、スターティング・オーヴァーです。

冬に雪の下で過ごした麦を用いる氷室饅頭は夏負けしない無病息災を願う縁起もので、初めは萬/万人の頭へ出世するという意味も込めて、「氷室萬頭」として売り出されたそうです。

暑気当たりを防ぐ願掛けに食べる氷室饅頭は、当初は献上する雪の白さに擬えた白色だけでしたが、今は花見団子と同じような彩りの三色を拵えている老舗も在ります。

蒸しても余りふっくらとしない麦饅頭だった氷室饅頭は現在、酒種を入れて、薄皮でふっくらしてモチモチと香り良く、劣化が遅い酒饅頭になりました。

丸い饅頭の形も配膳に盛られた祝いの氷を模していると考えます。

献上氷の道中の無事を祈願して初夏に神社へ奉納する雪盛りは、形が定まらないまま直ぐに融けてしまうでしょうし、まさか、茶碗に白米や掻き氷のように盛られてはいなかったでしょう。

取り出した雪の状態は、夏でも高山の林道の沢陰に砂礫や枯葉まみれで残っている万年雪に近いですが、もっと、一度融け掛けて再び固まった真冬の屋根雪のようで、綺麗な白さです。

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徳川への献上氷の雪:

江戸の将軍様への献上氷については、江戸の文献で確認できる一番古い年代記録に、寛政11年(1799年)に加賀藩江戸上屋敷の氷室の雪が届けられたと有ります。

江戸の文献には加賀藩の献上氷を「六つの花(雪の結晶)、五つの花(前田家の紋章の梅の花)の御献上」など雅な川柳で、多くの記述が残っていますが、加賀藩の文献には記載が一つも有りません。

これは金沢城から氷室の雪が直接、江戸城へ届けられたのではなく、金沢と同じように六月朔日の祝いを催す江戸の加賀藩邸へ送られて、その一部を徳川へ献氷したからと考えます。

加賀藩邸の氷室は江戸に降り積もった雪を掃き集めて詰め、金沢から事前に届いた祝い用の雪を保存する

冷凍庫の役割をしていたのでしょう。

そして、六月朔日の前日辺りに献上されて江戸城の氷室へ収められたと思います。

この加賀藩邸の氷室へは、真冬の夜間に金沢から雪が運ばれたという説が有りますが、積雪する極寒の時期に日本アルプス地帯を通って行くなんて(東海道を通るにしても)、とても虚しくて無意味な気がします。

江戸屋敷の氷室を一杯にするなんて、どれだけの量を運んだんだよっていうか、運べたのかよ、ですわ。

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祝いの氷の運び屋:

氷室の雪を江戸へ運んだのは、金沢市内を流れる犀川の源流辺りに住む倉谷四ヶ村の衆でした。

そこは富山県との県境の地で、ブナオ峠を越せば五箇山の集落へ至ります。

倉谷には金山が在りました。

金、銀、銅、鉛を産出する倉谷金山は、文禄3年(1594年)から採掘が始められたと伝承記録が有りますが、古代越の国から栄えた北陸の地は、谷や沢や峰の岩石や露頭地層は全て探索し尽されて、採掘される以前から砂金採りが行われていたと推測します。

採掘量の激減で倉谷金山が正徳4年(1714年)に閉山して四ヶ村も衰亡した以降の倉谷の衆は、兼ねていた加賀藩の特殊業務に徹していたようです。

金銀の採掘で器用に坑道を掘り、金属工作をする倉谷の衆は、兵科だと工兵。

工兵を英語ではパイオニアやエンジニアと言い、その意図する所は特殊なプロの技能と技術を持つ人達が、アンダーな業務を熟す、加賀藩のお庭番で暗部だったんですね。

些細な事から外様筆頭の大大名の前田家を断絶取り潰して、所領を旗本や直参へ分け与えようと企む徳川幕府の隠密達と熾烈な闘いをしていたのかも知れません。

祝いの氷を速やかに運び、五箇山煙硝の製法を守り、金銀を採掘し、参勤交替のルートの安全の確保や、加賀藩要人の警護をする…… なんて、けっこう凄くて格好良いぞ、倉谷の百足衆です。

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雪を保存する氷室:

兼六園内にも氷室が在ったらしいとする古地図が有りますが、地形的に初夏まで雪がちゃんと保存できていたのか疑わしいですね。

もしかして、それは徳川へ献氷する真夏の雪の出所を、公儀から訊かれた時のダミー氷室なのか、城内の下級武士用だったのかも知れません。

天正12年(1584年)から金沢城玉泉院丸の南西の隅に氷室が設置された元禄5年(1692年)まで、倉谷四ヶ村が祝いの氷の献上したと記述が有りますから、山間の倉谷には氷室が有った事が分かります。

なので、後年の加賀藩江戸上屋敷へ運んだ雪は、倉谷か五箇山に設置された倉谷衆が管理する専用の氷室から切り出されたと考えられます。

運ばれる雪は長さ2m、巾1m、厚さ60cmくらいの大きさで、滅菌と保温に熊笹で幾重にも包んで桐の箱へ入れ、更に断熱と消毒にヒバの葉か、檜の鉋屑を敷き詰めた桐材の長持ちに入れてからも筵を重ね巻きして運ばれました。

三棹一組としていますから、江戸の藩邸へは徳川献上用と合わせて、少なくとも六つの桐の長持ちが送られたと思います。

発送の時期は峠の積雪が消える五月初め、江戸までの約500kmの距離は出来る限り最短で、間者と輸送の交替要員を兼ねてコース上に住み着いた倉谷衆が、整備して安全を確保した涼しい高地の日陰ばかりの道を、急ぎ24時間移動で四日間、藁束をクッションにして積まれた日除け付きの荷車を馬で引かせて行きました。

人里を離れた山間をアクシデント処理や警護や交替の要員を従えた荷車の列は、夜間に足許を照らす提灯の灯りで、遠方からは狐火の連なりのように見えた事でしょう。

氷室への雪詰めは1年の内で寒さが最も厳しい大寒の1月20日頃に降り積もった雪を使いますが、それは氷点下の寒さで雪の結晶がしっかり形成されて融け難いのと、乾燥した厳しい寒さに雑菌が混じり難いので、氷室で長期保存しても雪質が腐って黴るような事は無いからです。

フワフワサラサラの新雪を何トンも氷室へ運んで詰め固める作業を、幾人で行っていたのか分かりませんが、大変な重労働だったと思います。

冬の雪を夏まで保存する氷室は古代に大陸から伝わり、雪が積もり夏は猛暑になる地域では一般的な設備でした。

機械で製造する氷が売られ出す明治初期から廃れ始め、冷蔵庫が普及する昭和には無くなってしまいました。

それまでは、氷室の雪や氷が熱中症などの熱を冷まし、夏バテする身も心も癒していたのです。

六月朔日が過ぎると販売されて、夏の暑さに齧ったり、飲んだり、冷たさを楽しんだりと、身分に関係なく利用されていました。

雪の積もらない地方では貴重な真夏の氷でしたが、金沢では季節の風物で珍しくありませんでした。

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現在の氷室:

昭和30年代に一度途絶えました氷室は現在、湯涌温泉の年中行事の一つとして昭和61年(1986年)から復活しています。

現存して活用されているのは、日本中で湯涌温泉の観光用氷室だけらしいです。

毎年1月の最終日曜日に60トンもの雪が横4m縦6m深さ2.5mの氷室小屋の中へ入れられる雪詰めは、観光の御客さん達が大勢参加しています。
そして、6月30日に行われる氷室開きは、金沢の夏の風物詩として定着しており、大勢の観光客が訪れます。

それは藩政時代当時の衣装と作法で再現され、運び出された最初の氷の一部は献上氷室雪として地元湯涌の薬師堂へ奉納し、残りはお茶用の湯に足されて観光客に振舞われます。

(大寒の雪でも、現在は大気の状態や厳しい規制故に、そのまま食べれません)

また、加賀藩藩主だった前田家からは当主が徳川将軍家の末裔の方へ、氷室氷を贈る伝統が現在でも続いています。

(現在も陰暦の六月朔日に徳川家へ届けられている氷室氷は、湯涌の氷室からなのでしょうか? それとも前田家が何処かに保有する……)

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