遥乃陽 diary

日々のモノトニィとバラエティ

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帰還 九七式中戦車(チハ車)を1975年8月に見ていた

もう随分と経ってしまいましたが、太平洋戦争のサイパン島の戦い(昭和19年/1944年6月中旬~7月初旬)で撃破され、海岸に埋められた大日本帝国陸軍の中戦車が掘り出されて日本へ運ばれました。

掘り出された戦車は2輌、その1輌が富士市の陸軍少年戦車兵学校の跡地に来たという情報を得て、当時勤めていた赤と青のツインスターの会社の有志達と見に行きました。

富士山の麓に少年戦車兵学校の地を示す碑のみが立ち、周囲も殺風景な砂利を敷いただけの跡地に、その歴戦の九七式中戦車は運ばれていました。

サイパンの砂は洗い流されていましたが、塗装の残りも無く全体が錆びたままの風雨を遮る物も無い野晒しの状態で置かれていました。

先輩の一人が持って来た清酒を撒き、有志全員で合掌した後、好き放題に触りまくっていましたね。

上に乗ったり、中へ入ったり、砲の口径や貫通痕の穴径や装甲厚を測ったり、写真を撮ったりしました。

先輩達と見に行ってモノクロの集合写真とカラーのスナップを撮ったのが、昭和50年(1975年)の8月下旬で、再び訪れて砲塔へ乗り込んだカラー写真は、昭和51年(1976年)の4月初旬です。

そして、この帰還戦車がサイパン島のタナバク港近くの海岸から少年戦車兵学校の跡地内へ運ばれて来たのは、昭和50年(1975年)の8月中旬でした。

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現在、若干の形状補修と防錆処理をされている以外は、帰還時のままの外観(各ハッチは閉じられている)で屋外展示(屋根付き)されていて、乗り込みや車体上に上がるのは禁止されていますが、撮影は自由で触れる事も可能です。

それと、当たり前のマナーとして、奉納展示されている車輌が劣化していても部品や装備などを剥がして損傷させたり、持ち帰ってはなりません。

もう1輌の靖国神社へ奉納された九七式中戦車は外観が復元されて、神社境内の祭神縁の資料を納める遊就館内に保存展示されています。

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激戦地から静岡県の兵学校跡地に戦車が帰還した御蔭で、既に1/35ミリタリーミニチュアシリーズで設計が開始されていた企画が更に正確なディティールとフォルムになって、九七式中戦車のプラモデルは昭和50年/1975年の12月初旬に発売されました。

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この少年戦車兵学校の跡地に帰還した九七式中戦車は、大日本帝国陸軍第九戦車連隊第三中隊の一輌です。

(靖国神社に奉納されたもう1輌は第九戦車連隊第五中隊の車輌で、境内の遊就館に外観が復元されて展示されています)

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第九戦車連隊の第三、第四、第五の中隊がサイパン島へ(第一と第二中隊はグアム島へ分派されています)無事に着いたのが、昭和19年(1944年)4月9日。

猛烈な艦砲射撃と空爆の後、アメリカ軍の海兵隊がサイパン島南部西側のオレアイ地区へ上陸したのが6月15日の朝。

寒い満州から常夏のサイパン島へ着任した戦車兵達は、島域訓練や防御陣地の構築が不十分の上、暑い気候に身体が馴染み切らないまま、二ヵ月後には初陣となりました。

砂浜に展開しだした上陸直後のアメリカ海兵隊へ直ちに突入した第四中隊が波打ち際まで激しく攻めて、海兵隊を海へ追い落とす寸前に大口径の艦砲射撃の反撃により、撃退されてしまいます。

艦砲射撃が止み、午後に再び展開しだした海兵隊を、第四中隊の残余が緒戦よりも激しく攻撃して浜辺まで蹂躙し、新たに投入された上陸予備大隊の海兵隊幕僚達が乗る水陸両用戦車を撃破しましたが、またもや艦砲射撃で撃退されました。

重なる深刻な損害にも拘らず、翌16日の丑三つ時に第四中隊は三叉路交差点が在るオレアイ集落まで進出した海兵隊を襲撃します。

この早朝5時頃まで三時間余り続いた夜間戦闘は、海岸沿いを三叉路付近の海兵隊指揮所に迫る勢いでしたが中隊長は戦死、更に再三の艦砲射撃によって突撃は潰えてしまいました。

15日朝から連続した三度の突撃を敢行して指揮官を失った上に、中隊戦力の14輌の戦車の内、後退して来た3輌を残して全てが撃破された第四中隊は、攻撃の続行ができなくなりました。

次なるアメリカ海兵隊への攻撃計画は、16日の日没40分前に戦車に歩兵を跨乗させた第三中隊と第五中隊が、オレアイの無線信号局へ撹乱攻撃をしながら戦果の拡大させる総攻撃を予定していました。

この攻撃計画は当初、歩兵の突撃に戦車が随伴支援するとされたが、戦車の機動に制限を枷せて奇襲性と打撃力を削いでしまう事になる為、折衷案として歩兵部隊を戦車に乗せての突撃となりました。

しかし、昼間の空襲と艦砲射撃に妨げられて戦車が二列で待機する攻撃発起地点へ歩兵部隊の到着がおくれ、総攻撃の開始は17日の深夜午前2時半と、大幅に遅れます。

太平洋戦線でアメリカ海兵隊が受けた最初の大きな戦車攻撃になったこの夜間戦闘は、16日早朝5時頃の第四中隊の攻撃頓挫から総攻撃が開始された17日の丑三つ時過ぎまでの約20時間余りの間に、海兵隊は陣地を構築して防御体制を整えさせ、バズーカや37mm対戦車砲の配備を終え、更に75mm砲搭載のハーフトラックやM4中戦車の揚陸を早めて日本軍の攻撃を待ち受けていたところへの、致命的な戦車部隊の突撃となってしまいました。

そして、発起された夜襲は増強された海兵隊の火力に加えて、各種地上火砲が打ち上げる照明弾と、沖合いの戦艦が放ち続ける大型照明弾のスターフレアの輝きによる真昼のような状況に、夜戦の撹乱的効果は全く望められなくなります。

それでも、地形的制限から二列縦隊の魚骨戦法で進撃した第四中隊の残存車輌を含めた第三中隊と第五中隊の合計31輌の戦車は、攻撃主体の陸軍第四十三師団の歩兵部隊と共に4時間近く戦い、アメリカ海兵隊をススペ地区の海岸まで圧迫しましたが、激しい戦力の消耗によって橋頭堡撃滅まで戦闘を続行できず、戻った1輌以外、出撃した戦車は全滅したのです。

靖国神社と富士市の陸軍少年戦車兵学校の跡地に創建された若獅子神社へ奉納された九七式中戦車は、この昭和19年(1944年)6月17日未明に発起された総攻撃の戦闘で撃破された車輌です。

若獅子神社へ奉納された車両は、発見当初、内部に二振の日本刀と砲手を担当していた軍曹の遺骨がのこされていました。

サイパン島へ上陸したアメリカ海兵隊への緒戦の戦車攻撃は、3中隊が全滅する激しい水際撃滅戦でもアメリカ軍を撃退して沖へ追い返す事はできませんでしたが、アメリカ軍に予備兵力の陸軍第二十七師団を投入させてグアム島への上陸作戦を1ヶ月以上遅らせ、グアム島の日本軍守備隊に防御を縦深配置に強化する時間と水際撃滅の作戦要綱を内陸撃滅へ変更する考察を与えました。

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1939年(昭和14年)8月1日に設立され、満州国南部の鉄嶺地区に駐屯していた戦車第九連隊には、多くの陸軍少年戦車兵学校の卒業生が配属されていました。

戦車第九連隊がマリアナ諸島へ移動した時に、昭和17年(1942年)8月に千葉市から富士宮市へ移駐された陸軍少年戦車兵学校の卒業生は何名いた事でしょう。

最後に補充されたのが、14歳から19歳で入学して2年間の育成を経た昭和18年11月卒業の第3期生なら、16から21の歳です。

最年少兵は、今の高校1年生か2年生の思春期真っ盛りの時に初めて体験する戦闘が、今日は勝てて生き残っても明日以降は負け続けて、逃れられない轟音と衝撃の戦闘へ臨む絶望と恐怖の中、この瞬間から数日後に自分は死んでしまい、到底生き残る望みの無い事を悟るのです。

現在なら死の恐怖と報われない虚しさの葛藤に、叫び、暴れ、逃亡して抗ってしまいますが、当時の日本は全く違っていたのです。

個人個人には、それぞれの思いで困惑と焦りが有りましたが、それを己の内に秘めなくてはならない世情と教育でした。

個人の事情や人権は国家体制最優先の国情と大儀によって、無きに等しい状況でした。

これは、戦後の平和的人権最優先の教育授業を受けた戦争を知らない現世代にとっては、正に想像がつかない、実感もできない、虚しいとしか思えない人生の意味を問う非現実的な社会でしょう。

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サイパンの戦闘では、40数名の少年戦車兵が戦死しています。

この様な大東亜戦争の悲劇を繰り返さない為に、日本の国が再び軍に付属するような国政にならないよう、一部の経済支配層に操られないよう、国民は国情を監視し、政治の変化に敏感で有り続け、平和の意味を違わないように整えて行かねばならないと考えます。

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PS:

サイパン島へは、2009年2月の春節休暇に家族でバカンスに行きました。

島の南端に在るサイパン国際空港(旧アスリート飛行場)へ着陸寸前の旅客機から見た南部西岸の風景です。

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西へ突き出た地形は手前から、アギンガン岬、アフェトナ岬、ススベの市街が在るススペ岬、ガラパン市街とアメリカン メモリアル パークが在るムチョット岬で、右手の山はサイパン島最高峰のタポチョ山(標高473m)です。

1944年7月7日の未明に決行した日本軍守備隊の最後のバンザイ突撃は殲滅され、散り散りに抵抗して島の北端へ追い込まれた生き残りの将兵や在留邦人の人達も、7月9日までに掃討全滅させられてサイパン島は陥落しました。

そして、陥落から1年1ヶ月後の1945年8月15日に日本の終戦を迎えても尚、更に3か月後の11月27日の投降までゲリラ戦を続けてアメリカ軍将兵から恐れられ、映画『太平洋の奇跡 -フォックスと呼ばれた男-』のモデルになった大場栄大尉が率いる残存兵力47名の潜んでいたのは、この山の中です。

1944年6月15日にアメリカ海兵隊は、ススベ市街北端のオレアイビーチと、ススベ市街南側のチャラン・カノアからサン・アントニオへの海岸に上陸しました。

そこへタポチョ山南部の山地麓で待ち構えていた戦車隊が突入して激戦を続けました。

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ガラパン地区北部のフェリー乗り場から約15分の乗船で、周囲1.5kmのマニャガハ島へリゾートに行けます。

小さな貝殻屑や珊瑚の欠片の白い砂と椰子やガジュマルの木々で覆われた平らなマニャガハ島は、高波であっさり沈んでしまいそうな小ささですが、島内のガジュマル(別名バンヤンツリー/多幸の樹/精霊の宿る木)の巨木前の大酋長アグルブの墓が在る神聖な島です。

紀元前1500年頃からチャモロ族が住んでいたサイパン島は、1565年から1898年にドイツの統治に変わるまでマリアナ諸島を支配したスペインが、チャモロ族をグアム島へ強制移住させて無人島にしました。そこへカロリン諸島のサタワル島からアグルブに率いられたカロリニアン族が1815年に移り住み、帰島して来たチャモロ族と共に現在も共存しています。

マニャガハの島名はカロリン語の『一休み』で、辿り着いたカロリニアン族がサイパン本島へ移る前に休息をしました。

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流刑地にしていたドイツに変わって1920年から統治を行った日本は、南洋庁サイパン支庁が置かれたガラパンの街の沖に在る神聖な島を戦略的防衛拠点として、1944年まで水上機基地と要塞を構築していました。

地図に軍艦島と記載されるくらいに多くの砲台や掩蔽壕が造られて要塞化したのですが、サイパン島陥落後の1944年7月13日、既に空爆と艦砲との撃ち合いで、その多くが破壊されて守備兵も減少した壊滅状態の小さな軍艦島は、上陸したアメリカ軍が1時間足らずで占領しています。

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現在もマニャガハ島には、鉄筋がたくさん入った強固なコンクリート製のトーチカの砲台跡や大砲の錆びて朽ちた砲身が多く残っています。

桟橋脇の海中に沈む上陸用舟艇みたいな錆びた遺物は、軍艦島当時に使われた桟橋です。

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1944年6月19日にトラック島へ移送するはずの九五式軽戦車10輌が、ガラパンの町に残されているのを知った第九戦車連隊の残余は、直ちに接収を行って稼動した9輌で中隊を編成し、翌20日の午前深夜にサイパン島南部東岸のラウラウ湾沿いに北上するアメリカ軍をツツーラン地区で、全速力の猛襲を仕掛けますが、17日のススペ地区と同じく圧倒的なアメリカ軍の防御火力によって全車が撃破されてしまいました。

たぶん、そのツツーラン地区で撃破された1輌と思われる、この九五式軽戦車のようにリゾートの島サイパンには、多くの太平洋戦争中の遺痕や遺物が時の流れと風雨に晒されて朽ち果てるままに展示されています。

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戦争の悲惨さや空虚さを知らしめるには、奉納して奉り、御神体の如く撮影や触るのを禁じるよりも、触れて乗り込んだり、自由に写真に撮ったりできる、朽ち果てるに任せる展示は、何気に人の心に反戦と平和を刷り込む気がします。

技術の進歩経緯の復元展示の保管と、平和を願う鎮魂をサイパン島のような展示にして明確に分けるべきなのかも知れませんね。

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マリアナ諸島の島々に分派された戦車第九連隊の人員746名中、終戦伝達によって帰還したのは僅か21名だけでした。

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サイパン空港への進入コースの旅客機から見たサイパン島の南方に隣接するテニアン島です。

飛行機はテニアン島北端の牛岬上空を通るコースで着陸します。

緑の島を真っ直ぐ通る広い道路は、島全体がアメリカ空軍の基地だった時にブロードウェイと呼ばれた北南縦貫道なのでしょうか?

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南側には、マサログ岬と1944年8月3日の最期の防衛拠点になったカロリナス高地が見え、更に南方海上彼方に無人島のアギガン島が薄っすらと見えています。

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あの『倒福』マークを貼ったハッピータイガーが逆襲の上陸をするのは、カロリナス高地右側手前の湾だったかな。