一時帰国する度に買いに行って、二つ、三つと食べていた大好きなサバラン(サヴァラン?/Savarin)を拵えていた洋菓子屋が、2017年10月31日火曜日を以って店仕舞いしました。
サバランを拵えていた洋菓子屋の『風月堂』が営業をしていたのは、金沢市の金沢大学病院へ至る変則十字の交差点を中心とした小立野界隈の商店街です。
金沢市を流れる犀川と浅野川の間にテーブル状になった山の尾の小立野台地が在ります。
この山の尾の端になる兼六園の東口から天徳院に至るまでの2kmを直線で繋げる石引大通りは、金沢市の北辺の鳴和地域や南辺の平和町地区や南西側の三馬地区のように、金沢城周辺の主要繁華街から離れたサテライト的商業地域です。
その石引大通りの中心商圏になる大学病院前交差点近くに、お気に入りのメロンを挟んだサバランとパリパリのアップルパイを製造販売していた『風月堂』が在りました。
『風月堂』が何時頃から小立野で創業されたのかは知りませんが、小学生の時に母が仕事帰りに買って来る以外に自分から所望する事は有りませんでした。
中学校の登下校路に『風月堂』が在るのですが、並びに在った書店の『イロヤ』や向かいの貸し本屋やバス停近くの文房具屋に寄るくらいで、洋菓子には興味が有りませんでした。
高校生になっても部活で兼六園傍の護国神社に在る弓道場と石引大通り沿いに在った喫茶店『ミカド』に入り浸って小倉トーストとナポリタンを食うだけで、女子とデートしてもショートケーキをテイクアウトする発想は無かったです。
それが、『風月堂』のモンブランを妻が買って来てからは、洋菓子が気になり出しまして、以後、出掛ける度にあちらこちらのケーキを買って来るのでした。
妻と一緒に『風月堂』へ行った時に初めてサバランを買ってからは、そのしっとりと絡む洋酒をメロンがまろやかする奥深い美味さの虜になりまして、仕事で中国に滞在する十数年間は一時帰国する度にサバランを食していました。
ブリオシュの茶褐色の上皮から覗くメロンの一片の、そのペパーミントグリーンのような彩の爽やかさが、見た目にも美味なる風味を想像させて食欲をそそるのでした。
なので、お気に入りのサバランが『風月堂』の閉店で、食べられなくなったのは非常に残念です。
石引大通りを歩く事も、滅切と少なくなって仕舞いました。
サバランはコミック『鉄道少女漫画/木曜日のサバラン』に、女子高校生のヒロインとサラリーマンとその妻のコミュニケーションアイテムとして登場します。
サラリーマンの幼い娘がぶちまけたサバランから身を挺して鉄道模型のレイアウトを守るヒロインの姿に、「サバラン、勿体無ぇ」と思うのでした。
そして、幼子に洋酒入りの洋菓子を食べさせていたら、大丈夫なのかと心配になるのでした。
これは金沢市に在る別の御店のサバランで美味なのですが、『風月堂』のサバランが懐かしいです。
ルーツ:
サバランの起源は、オーストリアの焼き菓子だったようです。
その焼き菓子は18世紀後半のポーランドで、スタニスワフ・レクチンスキー王の料理人がババという堅いクッキーのような御菓子にアレンジしました。
スタニスワフ・レクチンスキーはポーランド王に2度もなった人物です。
最初はスウェーデンのカルル王の支持を受けてポーランド王になりましたが、ロシアとの戦争に敗れてフランスへ亡命。
フランスでは娘をルイ王に嫁がせて王室縁故となり、今度はフランスに支持されてポーランド王に復帰するが、それを不服としたオーストリアとロシアの連合軍に敗北して、再びフランスへ亡命。
ポーランド王を退位する代わりにフランスのロレーヌ地方の領主となった、政治運の無い方でした。
でも、ロレーヌを経済発展させていますから、統治能力は優れていたようです。
その産業振興からフランスでもババが食されるようになったのでしょう。
彼の側近や従者達も優秀者揃いだったようです。
そして、いろいろとアレンジされるババの逸話が有りますが、兎に角、洋酒入りのシロップに浸すと、とても美味しくなりましたから、そのようにパリのパティシエ「ストーレー」が、19世紀前半にババを改良して広めたのです。
更に、ストーレーの許で修行していた職人オーギュスト・ジュリアンが、改良されたババをヒントにサバランを作りだしたのでした。
サバランの名称は、19世紀のフランスの美食評論家のブリア・サヴァランへの敬意を表して付けられていたそうなので、きっと、彼から非常に高い評価が得られたのでしょう。
洋菓子のサバランは知っていますが、ババは知らないですね。
注意!
サバランには洋酒(ラム酒やリキュール類)が使用されていますので、チョコボンボンと同様に食後の運転は控えなければなりません。
アルコール風味の度数と摂取量は分かりませんが、酒気帯び運転で検挙されかねないので、気を付けましょう。