遥乃陽 diary

日々のモノトニィとバラエティ 『遥乃陽 diary』の他に『遥乃陽 blog 』と『遥乃陽 novels 』も有ります

世の中は感動と憂いに満ちている。シックスセンスが欲しい!

弾痕だらけの富盛の石彫大獅子(阿吽じゃないの?)沖縄県八重瀬町

富盛(ともり)、大獅子(うふじし)、八重瀬(やえせ)と発音します。

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神社の狛犬の阿吽と左右の配置は定まっていないようですが、向かって右側が『口を開けて・阿』、左側が『口を閉じて・吽』が多いです。

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『阿吽の呼吸』の絶妙な対処で神仏の神域と聖域を守る、正に『臨、兵、闘、者、皆、陣、列、在、前』の『九字』を手刀で胸の前に切り、両手の指で『九字』の印を結んで呼び寄せる『我を守護する者ども、我の前に来たりて陣を張り、我を守り給え』の如く、狛犬達は守護神なのです。

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『誕生時の泣き声を上げる開く口の阿』、『死した時に肉体の全てが止まり声と音が無くなるのを表す、口を閉じる・吽』、これは命を得て魂が離れるまでを意味しています。
つまり、『生きろ!』、『栄えよ!』と狛犬達は前に並び、守護してくれるのです。

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大半は狗像ですが、狐、兎、唐獅子に、正体不明などの対像も有り、鳥居の結界を越えて来る災厄から守護する為に社の直前に据え置かれています。
鳥居が二つ、三つの多重結界と二対、三対の魔除けの狛犬で厳重に守られている神社も多いです。

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寺院の門には大きな阿吽の仁王像が左右に立ち、門を潜る信者達の信心を問うように強く睨み付けて、異端信者や不心得者を排除しようとしています。

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f:id:shannon-wakky:20180627063432j:plain沖縄の家屋の左右の門柱上のシーサーにも阿吽が有ります。

家と家人の安寧を守護し、災厄の侵入を拒む、福は内、鬼は外の守りです。f:id:shannon-wakky:20180627062802j:plain

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阿吽という表記は確かに仏教由来かも知れませんが、阿吽の守護と厄除けの考えは、五千年以上も前の古の神殿や墳墓の遺跡に対の守護神像や獅子像として残されていて、古代から生と死と守りと栄えの象徴とされ、単なる威厳や威嚇の気休めの信心物ではないのです。

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災厄を封じ込める為に災い元を睨んで唸って威嚇する阿吽像と、守護するモノの前に並んで災厄を退け祓い侵入を拒む阿吽像が有りますが、火難の源とされた八重瀬岳へ向いて火炎の災厄から集落を守る火伏せの富盛の石彫の大獅子は、その両方の願いを込めたシーサーです。

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沖縄県の家屋の屋根や塀の上に置かれて、家族と家財を守るシーサーの多くや、全国で見られる辻通りや屋根隅に置かれて災厄を祓い安全安心を願う魔除けの像や地蔵や道祖神は殆ど単体で、阿吽の対では有りません。

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西洋のゴシック建築には大抵、屋根の角に配されて雨水を落とす吐水口(樋嘴/ひばし)を兼ねている悪魔祓いの像のガーゴイル(gargoyle)も対ではなくて単体で、集まる雨水をガーゴイルの口から落水させて、建物を守護する四隅角へ配置された獅子像を潤わせるように受けられています。

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醜くて恐ろしげな姿のガーゴイルは、奈落から地面に出て災い撒き散らしながら天上界へ攻め昇ろうとする悪魔を見張る使命を神から与えられた天使で、信心深い人達の味方なのですから、魔除けの意味ではシーサーや狛犬と同じです。f:id:shannon-wakky:20180627065202j:plain

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体高141㎝、全長175㎝の富盛の石堀大獅子は標高92mの勢理城(ジリグスク)跡上に居ます。
彫像された1689年当時は勢理城近くの富盛の集落で火事が続いて、多くの被害と犠牲が発生していました。
この火事現象は、火山(フィーサン)と謂われた八重瀬岳(標高163m)に住まうと崇められていた火の神の暴挙の前触れだとされて、民の安寧を望む琉球王の命令で、火除け、火返し、火伏せを願とした石堀大獅子が勢理城上に八重瀬岳を唸り睨む蟠踞(ばんきょ)する姿で置かれました。

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活火山や休火山でもない八重瀬岳を謂う火山(フィーサン)の意味は、火難の災いを齎す祟り域という事なのです。
当時、多発する火事の元凶が風水の因果で、八重瀬岳に有ると読まれました。

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実際の火事の原因は、火起こしに使ったサトウキビの枯れ柄や枯葉などの始末の不徹底で、燻る火種が再燃して家屋や野畑を焼いていたのです。
蟠踞の時には、既にいい加減な火の始末に気付いた住民達が、消火と防火に徹底し出していて、火事は激減していたのですが、王令で製作された石堀大獅子を「原因が分かったので不要です」とは言えず、民の安寧を気遣う王への感謝の意として奉ったのでした。

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火の神が住まうと崇められていた八重瀬岳(標高163m)へ向けられていますが、神域への直視は避けるという意味で、僅かに左へ軸線を逸らしています。

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この富盛の石堀大獅子は、台座のように見える大きな琉球石灰岩から無垢に彫り出されたのでしょうか?
それとも、他で彫り作られた獅子像を蟠踞したのでしょうか?
別々だとしたら、当時の技術では、どのように安置の接合をしたのでしょう?

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1945年(昭和20年)3月26日、慶良間諸島の座間味島など数島へアメリカ陸軍第77歩兵師団が上陸して始まった沖縄本島域の地上戦は、4月1日朝、本島中西部へ上陸したアメリカ陸軍と海兵隊に、沖縄防衛を担う大日本帝国陸軍第32軍は、内陸部での地下陣地による持久戦で勇戦しましたが、激戦の挙句、兵力の消耗は甚だしく、補充や増強は望めず、遂に、5月27日には第32軍司令部が首里の司令部壕を撤収、本島南端の摩文仁の洞窟壕へ移動しています。
甚だしい兵力の損耗は、反撃する戦力を有する内にと、発令された総攻撃に因るものでした。

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愚作な総攻撃を撃退された以後、那覇、首里、嘉手納などの沖縄本島中西部域で戦い抜くと豪語して本島南部域へ県民を疎開させた大日本帝国陸軍は、激減した兵力の再編成をしつつ、持久戦で頑強に戦い続けていましたが、補充も、補給も無い消耗するだけの戦力に本島南部での転戦続きの防衛となり、沖縄県民を守るという意を翻して、疎開して篭っていた谷間や洞窟や亀甲墓から県民達を追い出して防衛戦線と拠点の構築をする情けない始末でした。
そして、疎開していた県民や地元の住民達を野外や拠点内の雑用係として危険な戦場で酷使し続けて、大勢を死なせています。

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八重瀬岳の断崖上の台地は、帝国陸軍の最重要防衛拠点とされ、勢理城跡の丘は前哨拠点になりました。
八重瀬岳は、険しい急斜面の尖がった頂上の高山をイメージさせる名称ですが、東側と北側が断崖絶壁になった最高標高位置が163mの台地です。
沖縄戦では八重瀬岳の台地や富盛の低地に日本帝国陸軍第24師団と海軍陸戦隊の各部隊が守備陣地を構えていました。

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八重瀬岳の台地上に水場が無い為に集落や田畑は在りませんでしたから、住民が上り下りの為に通る踏み固めた小道も無く、有ったのは僅かに均されて草が生えない程度の獣道だけでした。
そんな不明確な断崖道の中程の洞窟は帝国陸軍第24師団の第1野戦病院の本部壕とされて負傷兵の収容と治療が行われました。
更に断崖道を登った岩陰の貫通洞窟は手術壕になり、多くの重傷兵の外科手術が麻酔無しでなされました。

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その第1野戦病院の第4班と第5班に看護婦補助として配属されて勤務していたのが、縄県立第二高等女学校4年生の16歳から17歳の生徒で構成された白梅学徒看護隊の55名です。

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f:id:shannon-wakky:20180627072621j:plain白梅学徒看護隊は3月24日から従事していましたが、アメリカ軍が迫る6月4日に野戦病院長から「自分の命は自分で守れ」の非情さの解散命令が下され、洞窟壕から出された彼女達は砲爆撃と銃撃に曝される遮蔽物の乏しい戦場を、未だ日本軍が占拠している南部先端域へと悲運な彷徨をしたのでした。f:id:shannon-wakky:20180627073440j:plain

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6月7日に富盛の集落辺りまで接近して来たアメリカ軍は、事前の艦砲射撃、爆撃と機銃掃射、砲兵射撃を激しく実施して攻め登りますが、6月14日の八重瀬岳台地の完全占領までに繰り返された攻撃は、帝国陸軍の特設第6連隊(200名足らず)と帝国海軍の勝田大隊(40名足らず)と丸山大隊(70名足らず)の防戦と反撃によって全て撃退されています。

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勢理城の石堀大獅子の位置へは、6月10日にアメリカ陸軍第96師団第381連隊第3大隊のK中隊とL中隊が進出して、八重瀬岳の断崖下の低地を守備する帝国陸軍特設第6連隊の一部を激しい交戦の末に断崖直下へ撃退しています。

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沖縄戦の記録写真に勢理城の石堀大獅子が写る場面は、6月12日に八重瀬岳台地上へ攻め上がったK中隊とL中隊が帝国海軍勝田大隊と交戦する戦況を、G中隊の将兵が石堀大獅子を盾にして双眼鏡で見守っています。

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写真の石堀大獅子は多数の弾痕や弾片の傷が有ります。
黒ずんでいるのは、砲爆撃の炸裂火炎やナパーム爆弾の火炎を浴びているからでしょう。
もしかして、日本兵の姿に見間違えられて火炎放射をされているのかも知れません。

最前線で、日本兵のほんの10秒ほどの突貫に銃剣で刺殺される距離まで接近する火炎放射兵は、極度の緊張と恐怖から投降する敗残兵や県民と反撃して来る兵士を瞬時には見分けられずに、火炎を放射して火達磨にするしかなかったでしょう。

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背中や右側の丸い銃弾痕はアメリカ軍に因るもので、左側は主に日本軍から、正面は八重瀬岳から狙い撃ちする日本軍からです。
他にも艦砲射撃の大口径砲弾の破片痕、艦載機の機銃掃射痕、砲兵の支援砲撃の砲弾片痕が現在も残っています。

しかし、獅子像には著しい欠損部位や亀裂は無くて、琉球石灰岩の組織結合の強固さが良く理解できます。

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しかし、いかに強度が有る琉球石灰岩の獅子像でも、この大きさならば、戦艦の口径40cmの主砲弾や1t爆弾の直撃で粉砕されるでしょう。

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故に、石彫大獅子像は、1体だけだったのでしょうか?
口を開く『阿』像と対になる、『吽』像は勢理城上になかったのでしょうか?

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東宝映画『沖縄決戦(1971年)』の本島南部の糸満半島へ追い詰められる沖縄戦末期の戦闘場面で、富盛の石彫大獅子を模したと思われる大きさで尻尾の有る(一物も有るように見えます)石の獅子像が、玉砕する守備兵達の陣地に見られますが、その石像は2体有るのです。

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富盛の石彫大獅子は日本軍が強固に守る高台の八重瀬岳に向いていますが、映画に登場する獅子は敵のアメリカ軍の方へ向いていました。
(二体とも『阿』像です)

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尚、本島最南端の荒岬や喜屋武岬の僅かな土地に追い詰められた各部隊や、孤立して奮戦する幾つかの小兵力との通信が途絶し、軍としての組織的戦闘が不可能となった6月19日、第32軍司令部は最後に下達した勇戦敢闘の命令に、第32軍の参報長が「諸士よ、生きて虜囚の辱めを受くることなく、悠久の大義に生くべし」の一項を付け加え、軍司令官が黙認して署名しています。

これは、『大儀の為に死ね。生き残るのは恥だ!』という意味で有り、戦争に勝てないなら大和民族、いや天皇陛下の臣民は『自決して絶滅すべき!』の、当時の軍国主義の大日本帝国臣民全体に浸透していた意識でした。
その意識へ大日本帝国臣民全体を導いたのは、大日本帝国の断固戦争を遂行させようとする統治管理機構と狭隘思考の職業軍人達と拝金主義と利権欲の財閥達でした。

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『生きて虜囚の辱めを受けず……』は、戦陣訓の第八項で、1941年(昭和16年)1月25日に陸軍省が検閲済にして正式発行しています。
当時の東条英機陸軍大臣が自ら認めて定めた戦陣訓を録音して、大日本帝国の軍人と臣民に広く知らしめています。
1943年(昭和18年)5月25日に全滅(実際の玉砕突撃は5月29日)したアリューシャン列島のアッツ島守備隊を報じた朝日新聞の見出しには、『一兵の増援求めず、戦陣訓を実践、夜襲を敢行、壮絶玉砕』と、一兵も生き残らない全滅するほどの悲惨な敗北なのに、戦意を高揚して戦争遂行の徹底へと誘導する記述がなされています。
大日本帝国陸海軍は終戦まで生きて虜囚になる事を認めておらず、大本営は戦況が絶望的なアッツ島の放棄を決定すると同時に守備隊へ玉砕を命じました。
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沖縄決戦の終焉は、6月23日、アメリカ軍の摩文仁地区の殲滅占領で第32軍司令官と参報長の自決した為に司令部の防衛指揮系統は消滅して、戦闘を継続する防衛組織としての沖縄の日本軍は壊滅しました。
そして、まだ、小人数の日本兵の抵抗拠点は残るものの、実質的に連合軍の沖縄攻略戦のアイスバーグ作戦は終了しました。

それなのに、8月15日に大日本帝国が無条件降伏をするまでの掃討戦で、数多くの敗残兵と県民が自決して亡くなっています。

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日本の歴史上、1944年(昭和19年)9月から1945年(昭和20年)8月までの1年間は、重大な過ちの判断が続けられて実行された最大の恥の期間でした。

この恥の1年間を後悔して反省する口述や記述を行わないままに13階段を昇った、国を滅ぼす礎に為り損なったA級戦犯達は、興国の犠牲になった御霊を弔う靖国神社へ合祀すべきではないでしょう。

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守護を願った石彫の大獅子に無数の弾痕傷が刻まれた当時の不条理で凄惨な事態を想い、大日本帝国の敗北に因った1945年(昭和20年)8月15日の終戦から今日今後も、日本が歴史の最大の恥を繰り返さない平和な国である事を、改めて心から願っています。

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