遥乃陽 diary

日々のモノトニィとバラエティ 『遥乃陽 diary』の他に『遥乃陽 blog 』と『遥乃陽 novels 』も有ります

世の中は感動と憂いに満ちている。シックスセンスが欲しい!

川棚海軍工廠・石木地下工場跡へ行って来た(父親が従事していました)/長崎県東彼杵郡川棚町 2019年2月2日

f:id:shannon-wakky:20190516213604j:plain

昭和3年(1928年)6月生まれの父親が、金沢市立工業学校(金沢市立第一工業学校)4年生(16歳)から海軍軍属に召集されたのは昭和19年(1944年)12月の初めでした。

f:id:shannon-wakky:20190517065119j:plain

金沢駅で国鉄の列車に乗り込む時に父親(爺ちゃん)から二日分の握り飯を持たされて、途中、進路前方の空襲を避ける2回の臨時停車をしながら佐世保駅に到着しました。

f:id:shannon-wakky:20190517065424j:plain

召集先は長崎県の海軍佐世保施設部で、入所時(軍人は入隊ですが、軍属なので入所です)の新兵訓練は正規の3ヶ月を2週間に短縮されて、海軍針尾訓練所で行われました。
入所時の試験は数学のみで、父親の成績は入所同期のトップだったので班長に任命されたそうです。

f:id:shannon-wakky:20190517065512j:plain

班長の役割は、教官との連絡や伝達事項、朝礼や教練の号令や点呼、丘の中腹に在る訓練所から麓の市街まで往復する駆け足の先頭、朝の海軍体操を壇上に上がって号令を掛けながら行う、などでした。

f:id:shannon-wakky:20190517065807j:plain

訓練期間終了後の12月下旬に通達された任地は、佐世保海軍施設部工員養成所でした。
直ぐに着任した佐世保海軍施設部工員養成所は、建築科50名弱、土木科50名弱、機械科20名弱の学科構成で、生徒は高等小学校卒業後(尋常小学校6年と高等小学校2年)の13、4歳の少年達です。
所長は海軍少佐で、教師が建築科と土木科が各2名、機械科が1名で、父は機械科の最年少教師として赴任しました。

講義した内容は主に発動機(内燃機関)の構造と取り扱いでした。
朝昼晩の食事は職員食堂のテーブルの末席で、年配の上官職員達と一緒に食べていたと、少し自慢気で語っていました。

f:id:shannon-wakky:20190517070146j:plain

この工員養成所の裏山の反対側には、相浦の石炭火力発電所が在り、24時間フル稼動していても灯火管制により、夜は真っ暗で、裏山からの遠謀では所在が分らなかったそうです。
発電所は擬装されていないので、昼間は上空を通過する敵機から見えているのにもかかわらず、終戦まで爆撃されなかったのは、戦後処理に必要だとのアメリカ軍が判断していた御蔭だろうと言っていました。

f:id:shannon-wakky:20190517070215j:plain

佐世保海軍施設部工員養成所の解散と転属は、当初、父親の記憶では3月末か、4月初頭でしたが、工員養成所の裏山へ登り、空襲で破壊炎上する佐世保の街や港を見ていた事、空襲時に工員養成所の防空壕の奥へ生徒達を避難させて、自分は筵掛けの入り口前に胡坐を掻いて座っていた事、そして、其の近くで炎上の熱気で舞い上がった被災家屋のトタンがガラン、ガランと幾枚も落ちて来た事、などの鮮明な描写の記憶から、養成所の解散は、6月28日深夜12時近くから6月29日午前2時頃まで続いた、141機のB29に因る死者1240人以上の佐世保大空襲の後、空襲で被災した佐世保の市街の焼死体が燻る通りを歩いていた事からも、6月末日か7月1日だと判断されます。

f:id:shannon-wakky:20190517070244j:plain

工員の養成期間は正規の1年間から3ヶ月の極短期間で終了したのではなく、6ヶ月に半減短縮されたのでした。
解散閉鎖理由は、戦況の悪化で本土決戦が避けられなくなり、最前線となる九州に敵の上陸が切迫している状況に、上陸を阻止する水際撃滅防衛の拠点の完成を急がせる為、工員養成所の生徒と教員は、九州各地の防衛拠点を構築する施設部隊へ、生徒達は雑用補助として、教員達は技術軍属として、転属させられたのでした。

f:id:shannon-wakky:20190517070313j:plain

工員養成所の解散閉鎖に伴い転属させられた川棚施設部隊で父親は、海岸縁に在る広大な川棚海軍工廠の製造設備を、空襲被害を避ける為に疎開移転させるトンネル工事に従事して、工事に必要な削岩機、コンプレッサー、車両などの機械設備の管理助手を担当していました。

f:id:shannon-wakky:20190517070340j:plain

直属の上官は、新潟県長岡市出身の24、25歳くらいのミチシタ(道下?)という技術少尉でした。
部下の面倒見の良い上官だったそうですが、終戦後の後始末をしていた9月の或る日、『帰る』と言って長岡市の家へ戻って行って仕舞いました。

f:id:shannon-wakky:20190517070414j:plain

転属時には既に多くのトンネルが、川棚町の北側の風南山の山際、浦河内地区と岩屋郷と石木郷の山際に掘られていて、移設された工作機械が稼動し、川棚海軍工廠で製造されていた91式航空魚雷が、毎日1本完成していると知らされたそうです。

f:id:shannon-wakky:20190517070509j:plain

移設すべき設備は多く、終戦までの2ヶ月半は昼夜休みなくトンネル工事が行われ、発破(ダイナマイトの爆発による岩盤破砕)で出たズリ(岩屑や石片の土砂)は地元の女学生達が運び出していました。

f:id:shannon-wakky:20190517070546j:plain

施設部隊は48、49台の豊田製のトラックを保有していたが、昭和20年7月初めの着任時には、既に動かすガソリンが不足していたので7、8台だけを稼動させて、他の車両は順次、木炭、石炭を不完全燃焼させて発生する一酸化炭素のガスを空気と混合させて爆発させる木炭自動車(一酸化炭素ガス燃焼機関)にする為のガス発生炉、冷却器、清浄機、水蒸気発生装置を取り付けて改造しました。
(木炭車を始動させる時は、密閉した車庫内では不完全燃焼で発生する一酸化炭素に因って中毒事故死するので、通気の良い場所や屋外に駐車して行わなければならないです)

f:id:shannon-wakky:20190517070615j:plain

7月末頃には、ガソリンの枯渇で稼動していたトラックも、全て木炭車に改造してしまいました。
当時の改造では、完全に不純物を濾過、分離除去できなかったので、燃焼爆発は多くの煤を出し、其の爆発力も弱く非力でした。
故に、木炭車に改造されたトラックは馬力が小さくて、ガソリン仕様の半分以下の量しか運ぶ事ができませんでした。

f:id:shannon-wakky:20190517070644j:plain

アメリカの乗用車のキャデラックも木炭車に改造したが、エンジンのシリンダー径とピストン径の隙間が非常に小さいので、其処へ入り込む燃焼の煤が通り抜けずに付着してしまって、試乗の途中で止まってしまったのを、同乗していた曹長さんが念の為に一升瓶に入れて持って来ていたガソリンを、キャブレターを繋ぎ直したエンジンに少し注ぐと残りは燃料タンクに入れて、そして、乗車していた皆で押し掛けをしたら1発でエンジンが噴け上がり、アメリカと日本の工業力の差を体感したそうです。

f:id:shannon-wakky:20190517070714j:plain

川棚海軍工廠は終戦まで爆撃されませんでしたが、川棚の町は町内を大村湾へと流れる川棚川に架かる川棚鉄橋がB29の爆撃で破壊されました。
爆撃の被害は、鉄橋近くの馬車馬小屋や芝居小屋が爆発の衝撃と爆風で倒壊してしまい、多数の馬や芸人や地元民が死傷して、死者だけで70人に及んだ事を、被害現場を見て来て知ったと言っていました。

f:id:shannon-wakky:20190517070746j:plain

破壊された鉄橋は地元民や鉄道保線業務者や軍属達の人海戦術によって、橋桁の残骸を撤去した後、罅割れた橋脚の周囲へ枕木を積み上げて補強してから、新たな橋桁を掛けて、10日足らずで鉄道の運行が再開されたそうです。

f:id:shannon-wakky:20190517071123j:plain

川棚海軍工廠が爆撃されなかった理由に、戦争中は、『移転して中が空だと思われているからだろう』と、終戦直後には、『アメリカ軍がビール工場だと誤った認識をしていたそうだ』と、噂されていた様ですが、実際には、工廠内の各棟の役割を明記した詳細な航空地図が作成されていました。
ですが、航空機工場、港湾設備の戦略目標への爆撃、主要都市の中小工場や家内製手工業を撃滅する無差別爆撃が優先されて、戦争継続意思を余り殺がない様な戦術武器の生産量が少ない製造工場への爆撃は、優先度が低く、結果、終戦まで爆撃を免れていただけなのです。

f:id:shannon-wakky:20190517071217j:plain

川棚町と長崎市の中間に在る大村市にも、父親は工事設備の貸し出し管理に行っていました。
大村市に在る最新鋭の局地防空戦闘機の紫電改を製造して各種航空兵器の修理も行う第21海軍工廠と、特攻隊の発進基地として大きな航空戦力を有する海軍大村飛行場は、最優先戦略爆撃の目標とされて、5日に3回はB29の編隊が大量に大型爆弾を降らせ、近海まで接近して来たアメリカ海軍機動部隊からの艦載機も頻繁に襲撃を繰り返していました。

f:id:shannon-wakky:20190517071310j:plain

父親が監督と管理担当をしていた機械設備は、大村飛行場から航空機を避難させる退避路を造るのと、その為に強制排除させられる家屋を倒壊撤去するのに使用されていました。
強制排除の作業は防空壕に飛び込みながら空襲の合間に行い、3、4本造られる退避路の造成計画の妨げる位置に在った家屋は全て除いたそうです。

f:id:shannon-wakky:20190517071344j:plain

大村市を爆撃するB29の編隊は帰路を兼ねた西から東へのコースを、高度8000メートルで偏西風に乗り、高速で通過爆撃して行きました。
この編隊を川棚町の風南山や周辺の山頂に配置された高射砲郡が向かえ撃つのですが、真昼の打ち上げ花火の如く、砲弾が炸裂して煙玉の漂う高さは6000メートル辺りで、B29が飛ぶ高度には届かなかったのです。
それでも撃ち上げるのは、より精密な爆撃標準によって甚大な被害を受けない様に、B29を低空で浸入させない為でした。

f:id:shannon-wakky:20190517072325j:plain

軍属として召集されて作業に従事していた昭和19年12月から昭和20年12月まで、見聞き体験の記憶は鮮明なのに、季節の寒暖は、毎日が緊張する精神状態で、特に寒さは感じてなく、覚えていないそうです。

しかし、新型爆弾が落とされたと聞いて見た長崎市の方は、湾向こうの低い山並みの上に棚引く雲の下側が仄かに赤く、其の8月9日の正午頃は、暑かったと言っていました。

長崎市に投下された原子爆弾は、炸裂音も、閃光も、降る雨も、離れていて無かったそうです。
また、午後には、川棚海軍病院へ大火傷で全身包帯巻きにされた30人程の人達が、トラックに乗せられて来た事を聞いたそうです。

f:id:shannon-wakky:20190517072504j:plain

戦時中は、戦災を全く受けなかった金沢市でも、戦況の悪化に伴い地元で得られる農畜産作物や魚介類以外の食料を得るのは困難で、必要最低限を得る為に着物や貴金属類と物品交換をしなければなりませんでした。
そんな状況から戦況を察しても、報道は転戦で戦線を移動と書き、撤退、後退と表現される事は有りませんでした。
華々しく露と消える玉砕記事と高空を通過するB29の編隊から、『日本は負けるかも知れない』と言葉にするだけでも、不敗の皇軍、不滅の日本、神憑りの最終勝利を頑なに信じる親兄弟や親族、隣組や国防婦人会などの地域組織、特別高等警察や憲兵隊に拠って『敗北主義者』、『非国民』のスパイと非難、弾劾されて、逮捕され、尋問と拷問が繰り返される社会だったのです。
人権は白紙と化し、ストライキのサボタージュやエスケープの脱走は、死罪にもなる重罪でした。
そして、殆どの臣民は、唯一得られる報道記事から、8月15日正午の玉音放送で終戦を察するまで、天皇が統治する神州不滅の大日本帝国が負けるとは、少しも思っていなかったのです。
父親も、戦況は不利のようだけど、敵が来たら戦うしかないと覚悟して、大日本帝国が降伏するとは思ってもいませんでした。
終戦は、御知らせを聞くような無感動で、これで家に帰れると思っただけだったそうです。

f:id:shannon-wakky:20190517072534j:plain

終戦後は進駐軍へ渡す設備の整理と作業途中状態の後始末を、寝泊り出来なくなった海軍の作業管理所から川棚町内の松尾鍼灸院での下宿に移って行なっていました。
施設生活では、常に虱とダニと南京虫に悩まされていたそうです。
食事は作業所の面会所に用意されているのを食べ、風呂も其処で入りました。
下宿先では女学生だった長女の勉強を教えたり、幼い男の子達をオンブしたりして面倒をみていた事もしたと言っていました。

f:id:shannon-wakky:20190517072605j:plain

管理設備の後始末が済み、昭和20年12月下旬に川棚の町から金沢市へ国鉄の列車で戻る途中、乗り換えの大阪駅で北陸線の列車を待つ間、ほんの僅かの隙に脇に置いていた、土産や写真を入れていた風呂敷包みが置き引きされた事を、悔しそうに話してくれました。

f:id:shannon-wakky:20190517072651j:plain

金沢への列車の車窓から見る、九州の市街地と山陽の市街地と近畿の市街地の多くと、福井県の敦賀市と福井市の市街地が、爆撃で灰燼と化した焼け野原なっていて嘆いていたので、海軍の小松飛行場や小松製作所が在る小松市や陸軍の軍都の金沢市も同様だろうと覚悟したいたのですが、石川県の市町村は金沢市や小松市を含めて全く(機雷被害の七尾市を除く)戦災を受けていない平和な日常のままだったに、とても驚きながらも安堵したそうです。

f:id:shannon-wakky:20190517072722j:plain

父親にとって、其の1年間の記憶は鮮明で、新兵訓練、機械科教師、技術軍属の作業、爆撃、機銃掃射、砲撃、などの戦争経験は、それほど深く刻まれたのです。
私の16歳から17歳は、高校1年生と2年生の時ですが、あの頃の出来事や思いを月単位で記憶していません。

f:id:shannon-wakky:20190517072749j:plain

訪れた川棚海軍工廠疎開壕跡は、跡地の説明板は設置されていましたが、封鎖された廃坑の様な状態で、町並み近くに存在する太平洋戦争の軍事遺構として、反戦的な観光資源への活用が全く為されていないのには、思春期の父親の記憶に深く刻まれた戦争の場所という事も有りますが、非常に悲しい事だと思います。

f:id:shannon-wakky:20190517072816j:plain