金沢市湯涌町に在る『創作の森』の展望広場に立つ弥勒塔です。
『創作の森』の施設脇から森の中の長い階段を登り切ると、ピラミッドのような石組みの塔が見えて来ます。
底辺一辺の長さが3メートルの三角錐の塔は高さ5メートルの石組みで、安山岩のマイナスイオンを発する赤と青の戸室石を丁寧に削り出して、ぴっちりと隙間の無ない亀甲積みがなされていました。
塔の中にはシッダッタの次に仏陀になり、気が遠くなる56億7000万年後に人類を救済すると伝えられる弥勒菩薩の像が納められていると言われていますが、定かではありません。
しかし、それは像ではなくて、昭和19年/1944年12月12日にビルマ国から前ビルマ方面最高軍政顧問の桜井兵五郎を通じて贈られ、駐日ビルマ大使と桜井氏に奉持されながら金沢に到着し、そして、石川郡湯涌谷村高尾山に建立の大東亜寺仮殿に安置されて、翌13日に盛大な寄遷大法要が行なわれた、仏舎利の一部かも知れません。
塔へ空から金粉が舞い降る事も有ったそうなので、建立当事は表面が磨かれていて、真東を向く一面が朝日を反射して朝靄や朝露を金色に光らせていたのかも知れないですね。
『創作の森』として整備される以前は、『檀風苑』という『旧江戸村』と共に『白雲楼ホテル』が経営する施設でした。
『檀風苑』の開業は1974年ですが、1932年に『白雲楼ホテル』を建てた鳳至郡柳田村出身の桜井兵五郎(1945年国務大臣、1951年没)氏が、『旧江戸村』を整備した山と一緒に平城の城砦跡が在る山も買い取っていて、生前に弥勒塔を建立したのではないかと考えています。
塔の石組みや周辺のサークルストーンには祭事用の四角い孔が穿たれて、神事のなされていた痕跡が有り、故人はかなり熱心な信者だった事が分かります。
桜井兵五郎氏は、1967年(昭和42年)2月11日に全線廃線となった金沢市電を兼六園下から浅野川沿いに湯涌の地まで延長させて、香林坊経由と橋場町経由の二路線で金沢駅まで直通させ、更なる湯涌街道の沿線と湯涌温泉の発展を考えていたのかも知れません。
桜井兵五郎氏没後、『白雲楼ホテル』『旧江戸村』『檀風苑』は不況の煽りに加え、経営関係者の利権や財産の争奪の中でホテル事業の収支は絶望的に悪化、そして廃業に至りました。
金沢市内から湯涌温泉までの街道もバスが通れるように拡張整備して、情緒と華やかさを融合させた温泉郷造りをした桜井兵五郎の志は、こうして潰えてしまいました。
廃業した施設の建造物は金沢市に移管されて、特に由緒ある『白雲楼ホテル』は、文化庁の登録有形文化財に指定されたのですが、廃業後も残る財産争いの中に修復できないほどの廃墟と化してしまい、更地化された後、現在の芝生広場になってしまったのです。
真に残念な事で寂しい限りです。
PS:
ピラミッドは『創作の森』が在る山の頂上の展望広場の南角に在りますが、この山頂一帯が平下城の城砦跡で、北側は広い堀切で谷のようになっています。
本丸は堀切の向こう側の山で、城塞の遺構が有るそうです。
展望台側に遺構は発掘されていないですが、地形的に出丸とされていた事でしょう。
平下城跡の在る山は王道山(標高253m)で、山中には北袋町の湯涌街道から医王山中腹の小菱池町へ至る林道王道線が通っています。
此処で富山県境の順尾山を源とする浅野川は三つの支流を合流させて金沢市内へと流れて行き、そして、河北潟から日本海へ注ぐ大野川に繋がります。
三つの支流と本流を遡ると、北は見上峠(標高407m)、夕霧峠(菱広峠:840m)を越えて富山県南砺市のイオックス・アローザスキー場へ至り、東は横谷峠(標高526m)や刀利ダムを通る刀利峠(標高430m)を越えて越中平野南部の福光町南端へ出る事ができます。
南はブナオ峠(標高976m)を越えて塩硝作りで有名な五箇山の合掌集落や犀川上流の倉谷金山へ至る事ができて、いずれも古代から近代まで交易の重要な間道でした。
そして、各ルートの起点となる湯涌の地一帯は交通や物流の要衝となっていました。
この平下城に加え、少し北側の東町の御神造山には町城跡が在ります。
その麓には、鳥居に立派な注連縄が架かる大杉少彦名神社(おおすぎすくなひこなのじんじゃ)が鎮座して、一寸法師のモデルになった国造りで酒と温泉の神『少名毘古那(すくなひこな)』を祭っています。
境内には昭和天皇御手蒔杉が植わっていて、神話の古から戦略的重要地だった事が分かります。
他にも間道沿いの神社の地や山の尾には陣屋や砦が在って、堅固な城塞地帯だったのでしょう。
因みに平下城と町城は、加賀一向一揆の末期に一揆勢が改修使用した時の名で、織田信長配下の佐久間盛政の軍勢によって陥落させられています。
インターネット資料には城主の名が畑左衛門と刀根左衛門となっていますから、攻防時期と支配地域的に、もしかすると同一人物だったかも知れません。