遥乃陽 diary

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殉難おとめの像/金沢市卯辰山山頂(石川県女子挺身隊員の惨禍)

殉難おとめの像/金沢市卯辰山山頂(石川県女子挺身隊員の惨禍)

金沢市の卯辰山山頂に在る相撲場の東角の頂きで蒼空を仰ぎ見る女子学生の像です。

惨劇は終戦となる1945年(昭和20年)8月15日(水)の8日前に起きました。

8月7日(火)午前10時30分:

愛知県豊川市に在る海軍豊川海軍工廠の女子工員寄宿舎内の部屋から出るようにとの放送に促されて外に出て、整列しようとした彼女達が見上げた入道雲の立つ真夏の青空には……!?

8月7日午前2時40分過ぎ:

グアム島のアンダーセン基地から垂直尾翼に黒字にOの白文字のレターコードが大きく描かれた314航空団の最初のB29が飛び立ちます。

午前3時9分:

314航空団の発進予定の全機が離陸しました。

午前2時50分:

テニアン島の広大なノースフィールド飛行場から58航空団が発進を始めます。

午前2時54分:

同じテニアン島のノースフィールド基地から313航空団が離陸を開始します。

午前3時10分:

サイパン島南端のアスリート飛行場から73航空団とテニアン島の313航空団の殿機も滑走路を離れて、マリアナ諸島のアメリカ空軍基地4ヵ所に展開する航空団から作戦に参加するB29の全機が発進して行きました。

豊川海軍工廠を爆撃目標とする131機のB29爆撃機が工廠の西側からを爆撃コースとする為に、方向転進ポイントの紀伊半島潮岬と志摩半島へ向かいます。

途中、日本本土への中間点となる硫黄島からは、対空護衛として100機のP51戦闘機が加わります。

航空団は集合しながら9~11機の編隊の連なりになり、更に三つの大きな編隊へと纏まって行きます。

58航空団と313航空団は遥かに潮岬を望む海上の高度12300mで東北方向へ進路を変更し、73航空団と314航空団は志摩半島上空でコースを東北方向へと変えて行きました。

伊勢湾を横断中に大編隊は最終爆撃コースの東北東へと高度10000mで機種を向けます。

午前9時48分:

314航空団の先頭機が知多半島の上空に達して、更に高度を下げながら航空団は知多湾北岸沿いに豊川海軍工廠へ接近して行きます。

豊川海軍工廠で製造されていた兵器は、海軍で使用する銃弾や機関砲弾などの弾薬、対空機関砲や高角砲に装備する光学照準器、監視や観察用の双眼鏡などです。

彼女達にとって当初は初めての聞いて見て触る品ばかりで、多くの不良品を作って廃棄されていましたが、彼女達の勤勉さと真面目さで直ぐに高精度の良品を作り上げて行きました。

当時の工作機械は作業前に各所に注油しなければならず、注油を怠ると摺動部は焼き付いて停止してしまい、機械を分解しての部品修理に至ってしまうので、作業手順の熟知は必須でした。

加工寸法を調整する操作ダイヤルや測定具のメモリは揺らぎが大きく、作業位置を固定する治具も含めて取り扱いの微調整にはセンスと熟練の感覚が必要でした。

そして、それらの技能も彼女達は体得して、組み合わせた部品表面の0.005㎜の段差も指先で感じ取り、平らに修正していました。

B29爆撃団のパスファインダーと呼ばれる先導機は、精密爆撃を行う為に急速に高度を下げながら爆撃コースを整えている最中、高度8000m付近で被弾しましたが墜落や速度低下に至らず、エンジン1基から白煙を引きつつも先導を維持して、爆撃団は編隊を崩さずに高度3000mの最終爆撃コースで工廠上空に達しました。

午前10時11分:

先導機の爆弾投下を皮切りに先頭集団の314航空団が一斉に500ポンド(226.8㎏)爆弾を投下します。

午前10時から工廠全体に空襲警報のサイレンが鳴り響く中、工廠から西方約4㎞の愛知御津(みと)駅近くの大恩寺が在る標高94mの御津山に設営された対空陣地の2基の12.7cm連装高角砲がポンポンと発砲してドカンドカンと高角砲弾が上空で炸裂する大玉の花火のような音が聞こえて来て、それに工廠内外の25㎜対空機関砲のドンドンドンと連続射撃する騒々しい音が加わり、更に近くの南門脇の12.7㎝高角砲の発砲音がガンガンと重なる中、いつもの如く寄宿舎前に整列して点呼を取り、定められた防空壕へ退避するつもりでした。

『またB29の編隊が、高いところから爆弾を落としていくんだわ……!!』

だが、20機ほどで飛んで来るだろうと思ったB29を探そうとする、女子挺身隊員達の蒼空を見上げた顔は強張り、その瞳の輝きは不安の色で陰ってしまいます。

真っ青な空に真っ白な入道雲が立つ真夏の眩しい空を見上げた細める眦の瞳には、西の空一杯に広がるB29の大編隊が高度3000mくらいの低空で真上まで迫って来ているのが映り、其のエンジンの何十匹もの犬が一斉にワンワンと吠えているような爆音の唸りは耳を弄するばかりに空気を圧して来ます。

彼女達の不安は絶望に変わり、眼は驚きのあまり大きく見開かれて、自分を殺す銀色に輝く死神の群れを見上げて彼女達は立ち竦んでしまいました。

『ああっ!もう駄目……! 私、死ぬかも知れない……』

見上げた視界の隅々まで銀色の死神が撒き散らかした灰色の種粒ように落下する爆弾が、次第に黒々と大きくなって迫って来るのを見て、反射的に『危ない!』と察知できても、駆けて逃げる判断はつかず、『どこへ?』と、逃げ延びる場所の簡素な防空壕を見遣るだけで、竦む足に唖然としながら、一瞬先に自分がどうなるのか解らず、其の場に蹲ってしまった事でしょう。

『私、死ぬんだわ……』

彼女達が竦んだまま驚きの眼で見詰めている頭上から、視界の隅々まで擦過音を唸らせて覆い被さって来る死神の卒倒しそうな恐怖の迫りは、恐いと思った瞬間、悲鳴を上げる間も無く、爆弾の炸裂で彼女達の身体は四散、衝撃波と爆風で内臓が飛び出すほど潰されたのです。

鉄筋や鉄骨のコンクリート造りで強固な工場、重量物の設置に耐えられる構造の敷地、製造に使用する加工と組み立ての設備、集積されている加工部品、強化コンクリート製や耐火レンガ造りの発電所と発電と配電の設備、弾薬保管庫など、耐火建材を用いて発火や延焼の火災を防ぐ工廠内の強固な建築物を更地から再建築しなければならないほどに破壊するには、火災消失や高温と酸欠での蒸し焼きを目的とする焼夷弾(直径8㎝長さ50㎝重さ3㎏のM50/M69の焼夷弾を38個、一つの爆弾包みとして纏めたE46集束焼夷弾など)では、高度600~700mで散開してバラ撒かれてしまい、その落下衝突力は不十分でした。

そのゲル状の油脂と金属紛に因る花火のような爆発的燃焼も効果不足だと判断されました。

そして、工廠内の強固な家屋と設備を破壊できる大威力の爆発力と衝撃力が有って建物の基礎から掘り倒す500ポンド(226.8㎏)の高性能爆弾が選ばれて豊川海軍工廠に投下されました。

約230㎏の重さが落ちて来るだけでも非常に危険なのに、それは爆弾で、その威力は高空からの落下で着弾すると3mの深さまで潜ってから爆発して、地面を噴き上げさせながら粉々に砕ける爆弾殻の鉄片を飛ばすだけでなく、爆発の燃焼は間近にいる人間の肉体を四散させながら蒸発させ、音速を遥かに超える衝撃は瞬間的に肉体を潰して破き、その傷口から骨肉を圧し出しながら飛ばして壁や塀に磔して、塀際に積み重ねました。

側構や段差は飛ばされて来た、それらの肉体で埋まってしまいました。

寄宿舎前で整列しようとしていた石川県出身の女子挺身隊員達は、防空壕へ退避するよう号令が掛かる直前、周囲に着弾した爆弾が破裂した衝撃波の重なりで、其の場で即死してしまったのです。

爆撃団の先頭集団の爆撃は工廠の南側の正門付近一帯に着弾を集中させて、正門外の塀沿い道路の東並びに在った第12女子寄宿舎も吹き飛ばして破壊し、其処で寝起きしていた石川県出身の女子挺身隊約500名から52名の犠牲者を出させました。

その先頭の314航空団は午前10時24分に投弾を終え、後続の58航空団が間断無く午前10時23分に爆弾を投下し始めました。

更に73航空団と313航空団が午前10時26分の同時刻に爆撃を開始して、最後尾の機が投弾を終了したのが午前10時39分です。

航空団が工廠の上空を通過した28分間に投下された500ポンド爆弾は3256発、其の殆どが工廠内へ着弾して建物と設備の大半を破壊しました。

それは工廠の生産機能を完全に失わせて、2500人以上(2477人の記述も有りますが、正確な人数は不明です)を殺しました。

負傷者は1万人以上、多数の行方不明者の詳細は不明です。

500ポンド爆弾の投下に加えB29からは搭載する四つの銃塔の12門の12.7㎜機銃の内、下方へ向けられる二つの銃塔の4門と尾部の連装の12.7㎜機関砲が発砲して、阿鼻叫喚の通りを逃げ惑う人や広場の避難場所へと集まって行く人々を狙い銃弾を撃ち込みました。

工廠で勤務していた人達は56000人以上で、日本各地から動員された男子学徒や女子挺身隊員は工廠内の寄宿舎に住んでいました。

襲来は午前10時を過ぎていた為に、出入りの業者や軍属、来訪の軍人や公務員、それに追加動員で到着した挺身隊員の人数が分からず、爆撃と銃撃を受けた範囲内にいた人達の正確な人数は不明です。

また8月15日には大日本帝国の無条件降伏で、爆撃によって消失した事務資料は多く、軍関係の事後処理は停滞し、爆撃の被害調査の行政業務も中断してしまいました。

そして、引き取り手の無い多くの死者は集団埋葬するしか有りませんでした。

豊川海軍工廠で亡くなった石川県からの女子挺身隊員は奥能登の珠洲市出身から福井県境の江沼郡の出身者まで、石川県全域から白紙の徴用紙に名前を記して動員された女学生達でした。

1943年(昭和18年)9月13日、14歳以上の未婚者女性の動員『女子勤労動員促進』が閣議で決定され、1943年の末までに石川県でも女子挺身隊が結成されました。

豊川海軍工廠以外の各地の軍需工場へも石川県の女子挺身隊が派遣されて、合祀された52名を含めて460名の女子挺身隊の方々が亡くなっています。

爆撃を行ったB29の大編隊は日本本土上空へ侵入して帰投方向の海上へ出る62分の間、目標上空で高射砲の弾幕を受けた以外は、地上からの対空砲火や大日本帝国陸海軍防空戦闘機隊の迎撃も無く、被害は先導機が御津山の高角砲弾を受けてエンジンから煙を引き、硫黄島付近で墜落(不時着)したのみです。

殉難おとめの像は、金沢市の浅野川の北側に在る小高い丘(卯辰山)の山頂に1962年(昭和37年)に建立されました。

実物大の女子挺身隊員姿の彫像は、卯辰山山頂に在る相撲場の東角の高みに有ります。

着物の様な掛け合わせの上着は夏季仕様の薄地で、短い袖は女子らしく閉じられていて可愛く感じられます。

下衣は裾を閉じたモンペでウエストを紐で結んでいます。

通学で用いていたと思われる紐結びの革靴を履き、作業をしていた手には軍手をしています。

三つ編みのツインテールの額にはカチューシャではなく鉢巻を締め、背中に回した防空頭巾の下には鉄兜を背負っています。

胸に食い込む重い鉄兜の紐が痛々しいです。

面立ちは清楚で美人です。

日本が大敗している世情も知らず、あと1週間ほどで殺される不安が無くなる戦争最末期の局面なのに、ただただ自分達が兵器の製造に関わる事で、日本の勝利を導いて平和で明るい世の中になるのを信じて、様々な楽しい夢を描いていた思春期の15~17歳の可憐な乙女達が、戦争をしている日本しか知らずに、こんなみすぼらしい服装のままで短い生涯を終えたのは、本当に無念で堪りません。

8月6日朝、たった1個の原子爆弾の投下に因って陸軍軍都の広島市が壊滅した翌日の空襲でした。

豊川海軍工廠への空爆は、無条件降伏の受諾を迫るポツダム宣言を無視し続けて本土決戦を叫ぶ日本へ、抗戦武器の製造を諦めさせて投降を早める為のアメリカの作戦の一環でした。

翌日の8月8日には、アメリカとイギリスから参戦依頼をされていたソ連政府が終戦後の覇権の下心で突然、駐ソ日本大使に日ソ中立条約を破棄して対日宣戦布告を告げます。

しかし、駐ソ日本大使館の通信手段は、対日宣戦布告の通達をされている最中にソ連当局が没収していて日本政府へ知らせる事ができない状態でした。

この卑怯な外交工作に拠って開戦は、完全なソ連軍の奇襲になりました。

翌々日の8月9日の午前零時から開始された満州帝国への侵攻で関東軍の国境守備隊や在留邦人達がソ連侵略軍と戦闘になっていても、日本政府は宣戦布告された事を知らず、ソ連が対日参戦した事を確認できたのは未明に傍受したアメリカのラジオ放送からでした。

姑息周到なソ連は正式な宣戦布告を国際法に基づき事前通知をしたものの、在ソ連大使館から日本政府への通信手段を奪い、満州に駐留する関東軍が大本営からの防戦や反撃と邦人達への避難の命令を出せないまま、狡猾な奇襲をして蹂躙して行ったのです。

同じ8月9日の午前11時に新たな原子爆弾が長崎市に投下されて、長崎市は壊滅しました。

しかし、これほどの甚大な被害を被っても徹底された情報統制に由って陸海軍の統率の下、日本国民は更に本土決戦の決意を固めて行きます。

しかし、休戦の講和を頼っていたソ連に裏切られて満州帝国を蹂躙され、輸入は絶望的に回復の余地は無く、残された領土の本土は著しく疲弊した経済に糧も燃料も無く、日増しに悪化する国民の窮乏状態に漸く大日本帝国政府は天皇陛下の御聖断によって、ポツダム宣言の受諾を決定する事になります。

そして8月15日の玉音放送で敗北による終戦宣言に至るのですが、その終戦を潔しとはしない一部の軍部に因る皇居の占拠と玉音放送のレコード盤強奪未遂の謀叛事件が発生します。

もしも、この反乱が成功していると、北海道はソ連に占領され、本州、四国、九州は連合国の統治下になり、今日以上に駐留軍は増大しているでしょう。

勿論、現在と同様に日本国の明確な独立は示されないままです。

7月26日に日本に無条件降伏を求めた連合軍国のポツダム宣言は、条件の考慮や拒否の返事をせずに日本政府は黙殺します。

当時の日本人の感覚では、確かにアメリカは民主主義の開けた考え方の国でしたが、それは白人間の事であって、深く根付いた人種差別での残虐な迫害が日常的な国でした。

故に鬼畜米英と呼んで警戒していましたから、日本が敗北すれば、日本国民の奴隷化は必須とされていたのです。

その一方で、ソ連は赤色革命を経ても息を吐くように約束破りと裏切りを行っていた詐欺国家のロシアと全く変わらず、日ソ中立条約を締結していても信用できませんでした。

それでも、奴隷になるよりはとソ連に仲裁して貰っての戦争終結の和平へ日本政府は一縷の望みを託していたのです。

ポツダム宣言受諾要求への回答のノーコメントの意味の黙殺は、アメリカに交渉の余地無しの拒否の回答と受け取られてしまい、日本国の完全なる破壊への方向へと連合国の攻撃は苛烈さを増します。

この時、黙殺せずに何らかの終戦に向けた回答をしていれば、豊川海軍工廠の女子挺身隊の悲劇は防げていたのかも知れません。

宣言への黙殺から終戦まで繰り返し流された殺戮の血は、大日本帝国の体制と政治の采配の犠牲なのです。

帝国臣民の為の教育、天皇陛下の為の軍隊、その軍隊の為の徴兵制度、現人神の天皇陛下が治める国体の護持、臣民の生命は国体の護持の為に存在するとした洗脳教育で、国民の思考や生活は統率され、個人よりも社会全体を、個人の利益は社会全体の為に、そして、社会全体は天皇陛下の為にという構図で成り立っている故の犠牲で、当時は犠牲の意識は無く、御国に命を捧げるの感覚であり、当たり前に受け入れる名誉の死でした。

ですが、終戦に向けた回答が有れば、1945年7月26日から8月15日まで、更に8月15日以降も終息しなかった戦いの犠牲は無ったでしょう。

そして、犠牲なられた方々が存命していて、失われた事物も存在していても、全く同じ歴史を経て現在の平和な日本国になっていた事でしょう。

像の前には、小説家の水芦光子(ミツアシ ミツコ/1914年9月12日~2003年10月13日)氏の寄せた挽歌が添えられています。

彫像の作者は、浅野川沿いの並木町と材木町の間に在った玄蕃町で生まれた金沢美術工芸大学名誉教授の矩 幸生(カネ コウセイ/1903年9月28日~1980年4月18日)氏です。

岐阜県の梅林南町の梅林公園の北側の山際にも矩 幸生作の同じ彫像が『平和祈願像』として1978年(昭和53年)10月に建立されています。

岐阜県では13の市、69の町村から徴用された大勢の女子挺身隊員から93名が8月7日の豊川海軍工廠への爆撃で亡くなっています。

金沢市の『殉難おとめの像』、梅林南町の『平和祈願像』、どちらも夢儚き思春期にされた少女達の受難の魂が、辛く苦しい昭和20年8月7日の刻の狭間と豊川海軍工廠の獄地を彷徨する事無く、安らぎの天上へ召されるようにと建立された鎮魂の像です。

訪れた際には、〝彼女達の魂が輪廻転生を果たして、幸せな来世を過ごしているように〟と、彫像の背後の頭上に有る鎮魂の鐘を鳴らしていただきますよう、御願いいたします。

戦時中の不利な情報を隠蔽する体質は、現在も同じです。

特に新たな創造行為や改革の必要を感じていないと思われる学校社会、公務員や団体職員の縦社会などは組織ぐるみの不利益を隠そうとする悪質さが有り、其れに因る犠牲者や被害は無くなりません。

それは総力戦の戦争へ至らせる日本社会の底辺的な悪しき体質なのです。

この平和な日本の国が財の欲に眩んだ政治や報道に因って非道な軍国主義の侵略国家に成り果て、悲惨な太平洋戦争や鬼畜の日中戦争のような総力戦へ日本国民が導かれない為にも、世界の平和を願う鐘の澄んだ音色を鳴り響かせて心音を浄化して下さい。

彫像は高みの場所に在りますが、残念な事に其の場所からは白山を遠望して相撲場を見下ろせるだけで、市街地や日本海は見えません。

更に溌剌とした乙女達に相応しくない、朝陽も夕陽も差し込まないような高い木立の薄暗い茂み際なのです。

それに鎮魂の鐘を収めた塔の色が暗くて彫像の色と重なり、遠目には乙女の姿を判別できません。

この配色的センスの無さを、鐘枠の明るい白色で無垢な清純さを強調した色調の塔にするなど、改善できないのでしょうか?

何か意図的な理由が有ったのでしょうか?

それとも故意に目立たないように暗い色の重なりにしたのでしょうか?

国際芸術都市を掲げる歴史有る金沢市が主催した彫刻コンテストの2006年度優秀賞作品も、市庁舎前の広場から駐輪場の隅に移されていますから、責任者達は見た目や意趣的に忌みが宿りそうな物は人目を避けたいようです。