何時? 誰が?『大清水/おおしょうず』と名付けたのか知りませんが、此処でよく遊んでいた子供の頃は、連れ立った幼馴染も、地元の人達も皆、『大』を付けずに『しょうず/清水』と言っていましたね。
犀川の河岸段丘の中段に位置する直角三角形の形をした大清水の湧水池は、直角に接する二辺が高さ2mばかりの石垣で、斜辺の部分は池縁へ下りる階段と躑躅や紫陽花が植えられていた斜面です。
大清水への出入りは、善光寺坂を下り切った所の民家脇の細い未舗装の路地だけで、この路地の状態は今も同じです。
大清水自体や大清水に至る路地の雰囲気は、遊んでいた五十年前と殆ど変わっていませんが、路地口に在った鍛冶屋と紙屋は廃業して在りません。
斜辺側と向かいの石垣側には石材をコンクリートで繋げた洗濯場が設けられていて、当時は石垣に何枚も掛けられた大きな木板に列記された地元の家長名宅の御姉さん達が、汚れた衣類を篭に詰め、小さなタライに洗濯石鹸と洗濯板を入れ、肩が触れそうなくらいに並んで洗濯に大清水を利用していました。
洗い場の何処で何をしても良いという訳ではなくて、下手は洗濯に、上手は仕上げの濯ぎをして絞るという、利用者達の取り決めが有りました。
当時の利用者達は大清水周辺の三口新町の西外れの住人と、善光寺坂や立坂や建設資材置き場の葛篭坂を上り下りして来る段丘上段の上野町や上野本町の人達でした。
稀に夕方に洗濯に来る方がいましたが、洗濯する御姉さん達の時間帯は午前中で、平日に子供達が遊ぶ午後と重なる事は無かったです。
ただ、日曜日や祭日、それに夏休みに水を濁らせて何度か、叱れていたのを覚えています。
大清水の笠舞町側は水田と畑ばかりで、宅地化の道路整備が成されても長い間、住宅は建ち並びませんでした。
三口新町側には民家の庭と養魚の池の並びと広い葡萄畑が在りました。
(現在、養魚の池は殆どが駐車場になり、葡萄畑はショッピングセンターと賃貸住宅や幹線道路によって、ずっと狭くなりました)
宅地化の道路整備が為される以前は、大清水への小道が段丘下の上菊橋へ至る唯一の道でした。
小道は、牛首の集落(錦町)や上野町、涌波町や三口新町、更に山手の住民達が、笠舞方面や寺町台地へ行く最短コースの重要な道路だったのです。
平坦な砂礫の底面と浅い水位の大清水は小学生に遊び易く、暑くなる初夏から残暑の初秋まで放課後は家にランドセルを置くと、必ず来ては夕暮れまで水遊びをしていました。
直角に接する石垣の際の水中には、鮮やかな朱色の腹面で背面の真っ黒なイモリが多く棲んでいて、よく捕まえていました。
他にも、船の模型を作ると大清水に来て、イモリを乗員にして進水式をしてましたね。
大清水の流量が減る以前、この辺りには多くの湧水が在りました。段丘上段から中段への急斜面は斜面途中や斜面際から水田を満たせるくらいの流量が出ていましたし、段丘中段面上の僅かな段差際にも多くの湧水が小さな池を作っていました。
笠舞町側の宅地化の後に三口新町側も宅地された時は、立坂の右脇斜面の竹林と放牧場が削られて石垣が組まれ、宅地造成と道路を通されましたが、造成直後の梅雨の長雨が降る或る日の早朝、長さ100m近くの石垣の全てが滑り落ちるように崩れてしまいました。
幸いに崩れたのは石垣の厚みだけで、斜面上の住宅や住人に被害は無く、横の立坂の階段も崩れず、崩れた石垣が造成した宅地の敷地内で留まったので、斜面下脇の住宅並びにも被害は有りませんでした。
石垣が崩れた原因は、水脈と湧水量を調査不足で排水が不十分だったのと、僅か10m余りの高さなのに湧水量を軽視した一段積みの石垣の強度不足に有りました。
剥き出しになった粘土質と砂礫が層になった崖のような急斜面の二次災害を起こしそうな事態に、急遽修復された石垣は、二段積みにされて多くの排水穴が施され、以後五十年近く経た現在も不安は有りません。
大清水の石垣際から湧き出る地下水の殆どは、周辺上流域の犀川河岸段丘中段の笠舞段丘の小立野三丁目、三口新町、涌波町、大道割町、大桑町や、最上段の小立野台地の上野町、上野本町、小立野一丁目、錦町、土清水町と、更に上流域の永安町、末町、舘山町辺りからの浸透水が湧き出ています。
(涌波町から笠舞町までの多くの湧水は、1632年(寛永9年)に板屋兵四郎が小立野台地上へ犀川上流から金沢城まで通した辰巳用水の完成で、新たな湧水の出現と、それまでの湧水は水量が増えたといわれています)
ですが、大清水辺りから永安町の斜面まで見通せて点在する集落だけの田畑や野原の広がりは、都市計画によって区画化された宅地になり、畦道は側溝付きの幹線道路や生活道路になって全て舗装されました。
台地上の辰巳用水から分水されて滝のように落水する渓谷や湧水からの小川と用水も、辰巳用水を含めて全てコンクリートに固められました。
それに環状道路や導水路も台地の最狭部を貫通しています。
其の為に降雨や降雪による浸透水は激減して、現在は周辺の多くの湧水が枯渇して大清水の湧水量も半減しています。
今後、段丘斜面の竹林や雑木林、大桑町と錦町の調整地域が宅地開発されれば、近い将来に大清水は枯渇してしまうでしょう。
湧水が枯渇しないように、斜面の緑地は保護して広い緑地帯や公園が在る開発を行って下さるよう願っています。
また、広い金沢大学工学部跡地の利用については、大きな緑地公園を有して浸透水を確保できる施設でと望んでいます。
大清水脇の立て札の説明には、別名称に『はなかけ(鼻欠け)清水』が有り、鼻が捥げるほどの冷たい湧水だったから『はなかけ』と呼ばれたと記されています。
ですが、古書の元文二年(1737年)の記録に『鼻かけ清水』は亀坂の下より少し上の方に在りと記載されていて、この『少し上(うえ/かみ)の方』が坂道の途中なのか、亀坂が在る台地の斜面を北西の海側ではなくて南東の山側へ少し移動した場所なのか、よく分かりません。
甚だしい冷気で鼻が欠けるのは、かき氷を食べて頭がキーンと痛むのと同じくらい冷たかったという意味でしょう。
一年中を通して鼻が欠ける冷たさだと、地下の冷気の風脈に浸透水の氷穴ができて、そこからの流れ出ていたのかも知れません。
そして、元文二年以前から存在していた南東方向の善光寺坂までは亀坂から540mも離れていて、更に善光寺坂を下りた所の大清水は680m離れています。
大清水の水温は常に14℃。
流量が多かった頃、水温と外気の温度差の大きい日には水面を薄い靄が覆っていました。
故に、古蹟志に載る『鼻かけ清水』は『大清水』とは違う場所の湧き流水と考えます。
(その亀坂の渓谷に在ったのかも知れない氷穴は、中世期の乾燥して行く台地に風脈が塞がって湧水も涸れてしまったのでしょう)
ゆらゆらと水面が波打つほど奥の石垣際から湧き出ていた地下水は、流量が減った現在、水鏡の様に静かで水面に揺らぎは見えません。
その衰えた流速に下がった水位と、生活様式の変化もあって洗濯には利用されなくなりました。
流量の多かった以前も湧水口の脇や池隅の流れの淀む部分に藻は繁殖していましたが、流れに漂って洗う衣類に附着する事は少なかったです。
清水で遊んでいた子供の頃、梅雨の終わりや残暑が続く秋口には洗濯に来た年輩のお姉さん達の依頼で、淀みに水中のジャングルのように繁殖した藻群を水底の砂礫の苔取りも兼ねて、裸足の摺り足で清水中を歩いて流し回っていました。
浮かせた藻や濁りは流れの巻かれて十五分足らずで、くっきりと透き通った綺麗な清水に戻っていましたね。
流量が半減して流筋が細くなった現在は、藻に変わって緑鮮やかな水蘚がアクアリウムのように繁殖して、
清水は洗濯に使えなくなってしまいました。
(ここで繁殖する水苔は綺麗なので、販売できるかもです)
そんな水中の植物変化で既にイモリは棲まなくなっているのか、探しても見付かりませんでした。
洗い場を濡らしていた水位も下がって、現在は13cmです。
水質は今も飲料に適しているのか知りませんが、クレソンが自生するくらい清涼です。
PS 1:
大清水近くの善光寺坂の名の由来となった、古地図に描かれていない善光寺は、善光寺坂付近から立坂辺りまで広がる大きな湧水池を有した寺で、それが斜面からの大量の湧水に伴う崖崩れの砂礫で流されて埋まったのかも知れません。
現在の善光寺坂は、崩れた斜面に修復された涌波村や大道割村や大桑村へ行く坂道で、立坂は以前からの台地上から渓谷脇を通って上下の境内へ行き来する階段。
そして大清水と養魚池や周辺の湧水は広大な境内の中の湧水池の一部だったかもです。
大清水への路地や水底に埋まる瀬戸物の破片は、何時頃の物なのでしょう?
ならば、善光寺はどの様な形態で此処に建立されていたのでしょうか……?
歴史に名前しか残されていない古の伽藍は、朝陽に照らされて夕陽を遠望できる台地上の縁に在ったのでしょうか?
それとも朝も暗くて寺町台地に沈む陽に闇が早い斜面下の際に建立されていたのでしょうか?
PS 2:
1905年(明治38年)生まれで81歳で他界した祖父は、生前、大清水の石垣上に庭が広がる屋敷の葡萄畑と果樹園を経営する主と友人でした。
今も父が住まう実家は近所の立坂下の並びで、幼い頃の私は、主に会いに行く祖父に連れられて屋敷や敷地で遊んでいましたし、広い葡萄畑の隅々までも歩き回っていました。
葡萄畑が在る大清水周辺の土地だけが、砂礫が多くて水田には適さず、宅地化の区画整備がされるまで畑ばかりでした。
屋敷の敷地を囲む塀の南角に並ぶ石碑群は、葡萄畑や敷地に転がっていたのを主が集めて並べ立てたと聞いています。
大清水の石垣や洗い場が何時頃に造成されたのか、幼少の頃に大清水で小さな鮒やメダカなどの魚獲りをして遊んでいた1928年(昭和3年)生まれの父も、『既に現在の形になっていて、以前の状態は知らない』そうですが、『どうも加賀藩期から同じらしい』とも言っていましたね。