遥乃陽 diary

日々のモノトニィとバラエティ 『遥乃陽 diary』の他に『遥乃陽 blog 』と『遥乃陽 novels 』も有ります

世の中は感動と憂いに満ちている。シックスセンスが欲しい!

いたいのいたいの、とんでゆけ  独りで間違った自由へ飛ぶ前に……

ライトノベル『いたいのいたいの、とんでゆけ/三秋縋』(出版 メディアワークス、初版発行:2014年11月22日、書籍サイズ:文庫)の紹介です。

 

「痛いの痛いの飛んでけー」、初めて聞いたのは中学生の時で、ぶつけたのが脛だったか、肘だったか、忘れてしまったけれど、声が出ないくらいの激痛にじっと蹲って耐える自分に気付いた女子が、傍に来て痛い患部を擦りながら言っていました。

それから、言い終わると患部を擦っていた手を広げて、掌に乗せた痛みを『ふぅ』と吹き掛けた息で空の彼方へ飛ばすような仕種をしてくれると、本当に痛みが半分に薄らいだ気がして、擦られていた掌の温かさに『こいつ、マジに手翳しでも出来るのか?』と、思わず木目細かい肌の横顔を見てしまったのです。

「どう? 痛くなくなったぁ?」

そして、見詰められているのに気付いた女子の、痛み具合を訊きながら向けられた笑顔に、感謝の言葉を添えて頷きました。

『なぜ、ぶつけた?』の自責と、『どうして、ここで?』の対象物への怨みを女子は飛ばしてくれて、痛みが薄れた分だけ、スキンシップされた女子の匂いと愛らしさにドキドキしていたのを覚えています。

それ以来、いろいろと痛い場面で良く使っている御呪いの言霊ですね。

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ヒロインの能力は、パーソナルリアリティや固有結界の類なら素敵だと思うのですが、その『無かった事に』は自分だけの現実や自分だけの世界でないみたいかな。

 

風も、匂いも、色も、形や感触も、声と音も、味も、五感全てがリアルに感じて、眼が覚めても身体中に記憶されている夢をよく見ます。

八時間以上も寝ていたのにリアルな夢は五分たらずの出来事だったとか、逆に数年にも及ぶ夢だったのに五分くらいしか寝ていなかったとか、そういうのも、その時のマインドテンションの違いからなのか見る事が有ります。

夢の中の出来事は普通に現実的ですが、実際には知らなくて夢で初めてという場所や相手が多いです。

リアルな夢の多くは自分主体とはっきり分りますが、そうではない誰視点なのか分らない場合も有り、いずれも時間を経過したり、同じ繰り返しだったり、過去だったりする続きも見たりして、予知や御告げになったりしてますね。

『無かった事に』を繰り返す世界は、彼女の嬉しさを閉じ込めた固有の閉鎖空間で、『エンドレスエイト』や『ビューティフル・ドリーマー』のように閉鎖空間内の誰かが、気付いたり、目が覚めたりすると、夢みたく霧散するのに似ているかもです。

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ストーリーは、どのシチュエーションも残酷で汚くて怠惰です。

それでも、暴力的に酷く蔑すまれる辛い日々を、繰り返す嘘とたった一つの嬉しさが、絶望の上乗せだらけでも、生きる気力を失わせずに彼女をアベンジャーとさせたのは素晴らしいです。

現実に絶望して全てから逃げてしまおうと心底決めてしまってからは、命の尊さや生きる意義を説いても再び生に戻すのは、非常に難しいです。

でも、認めた呪いや悲しみや謝りの文を、脱いで揃えた靴と共に傍へ置く前に、とても高い危険な場所の縁に立つ前に、絶望に意欲と気力を無くして生きる世界から逃げる前に、ふうっと魂が抜け出たくなる前に、そして、独りで間違った自由へ飛ぶ前に、たった一つの嬉しい想いを信じて生き抜いて欲しいと考えます。

そして、其処へ至ったのが理不尽な誰かや、誰か達の所為だったなら、いつか必ず、彼女のように復讐・報復して遣って下さい。

何年も、何十年も経って無警戒にいる背後から『リリィ・シュシュのすべて』のラストのようにケジメをつけさせたり、その幸せそうな首や腰に抱き付いて力いっぱい飛んで遣りましょう。

決して、無抵抗に一人だけで逝かないで下さい。

人生を捨てる堅い覚悟に至っていたのなら、そうできると思いますし、そうして遣りたいです。

 

拳で眼の周りが赤痣や青痣になったり、口の中を切ったり、鼻頭の軟骨が折れて曲がったりするくらい殴られた事は有りますか?

鳩尾を深く殴られたり、男なら鋭いキン蹴りを喰らって、暫く蹲るほど悶絶した事は有りますか?

身体の一部を切ったり、削れたり、潰したりして、自分の骨や、出ている真っ赤な中身や、激しく鬱血した皮膚を見た事は有りますか?

火が付いたタバコを叫ぶほど押し付けらて、酷い火傷した事は有りますか?

他人へ酷い事をした事が有りますか?

事件や事故や自らの行為で、デッドラインを越えそうになった事は有りますか?

病気で死線を彷徨い生還した事は有りますか?

などなど、読みながら、そんな体験を思い出して改めて自分に問いかけていました。

 

『いたいのいたいの、とんでゆけ』『三日間の幸福』『スターティング・オーヴァー』、どれもタイムパラドックスの超常現象を絡ませた電波さが良い感じで好きですね。

前半から用水と遊園地へ遡るのが非情で、もう十回余りは読み直していますし、独り善がりと虚しさに身がつまされる前作二冊も相変わらず読み返しています。

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百年の孤独のチョコレートボンボンは、チョコぼんぼんの百年の孤独(黒木本店:宮崎県高鍋町)

私的にボンボンの中の酒は、液体でなければならない。

ゼリーだったり固形物が混じったりの加工を加えては、ボンボンじゃないと思うのです。

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割れ蕩ける薄いチョコ皮から中の濃厚な酒が口の中へ広がる味わいは、融けるチョコの甘苦さの異質に絡まる美味しさが、ホンマモンでしょう。

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『焼酎屋のぼんぼん』は、バレンタインディーに妻からプレゼントされました。

毎年必ずではないですが、良く手に入れてくれて心から感謝です。

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チョコレートぼんぼんは大粒で口の中へ入れると、もう潰れて割れるきゃないという感じで、砕けるチョコの外殻から広がる酒の味は全然麦焼酎っぽくなくて、しっかり年季が入ったウイスキーの味わいです。

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その芳醇な香りが、蕩ける大人味のチョコの風味といっしょに口から鼻へと駆け抜けて行きます。そして、融けるチョコとマッチした『百年の孤独』は、上質なブランデー風味のリッチでレアな咽喉越しになります。

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マロンレッドの包装紙で包まれた桐箱の中には御挨拶文と、裏面が金色の銀紙に包まれたぼんぼんが八つ入っていて、なかなかシックで粋なパッケージです。

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金石の砂丘(石川県金沢市の金石北と大野町)

初めて金石の海へ行ったのは、高校一年生の春でした。

弓道部のトレーニングで週に四日は畝田町の工業高校から、金石街道を一年生の初秋で廃線となった北陸鉄道金石線の電車が追い抜いて行くのを睨みながら、くたくたになって金石の浜まで走りました。

中学校では入部した剣道部が顧問先生の転勤で、あっさりと廃部になってから二年間も体育の授業以外にスポーツをしていない身体は、ランニングやトレーニングに慣れるまでの一学期の間中、毎回、渚に突っ伏してしまい、その度に引き摺られたり、蹴られたりして先輩達に無理矢理起こされていました。

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体格と体力を作り、射法八節の競技姿勢を整えるトレーニングを繰り返し行った、金石町から大野町の金沢港口までの直線道路が通る護岸提の下の砂浜は、流木と生活ゴミが多く、季節によって多少の違いは有りましたが、広いところで50m、狭いところでも20m以上の砂浜が続いていました。

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砂浜から護岸提上の道路へ上がると、道路向かいにはニセアカシアとクロマツの林で覆われた高さ10m余りの土手のような盛り土が、道路と平行に金石の町の人家の外れから大野の灯台裏まで続いていて、その海側の浜茄子と浜顔の群生が点在する砂地の斜面から、人工的な防砂の土手ではなくて自然に形成された砂丘だと分からせていました。

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砂が頂上まで剥き出した金石の町に近いところでは、海風に吹かれて移動する砂丘に呑まれたニセアカシアの立ち枯れした白い幹が林立していて、どこか異世界ぽかったですねぇ。

そこではトレーニングを兼ねて、缶蹴り遊びもしました。

先輩も、後輩も、関係無く、時間を忘れて夢中で砂丘を走り回って、いつもなら大野の灯台下を折れて学校へ戻るコースを、金石で止めてUターンしていたという、部活の楽しい思い出での一つです。

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立ち枯れしたニセアカシアが残る砂丘の頂きから海原を眺めるが好きで、夏場のいつまでも落ちようとしない斜陽、春の金波銀波の波間と黄昏色に染まる不思議な金石の通り、秋の日本画のような深紅の夕陽が融けるように沈む艶消しの海や朱色に染まる空、冬場の戻りコースで見上げた水平線の彼方から迫る真っ黒な山脈みたいな雪雲など、金石や大野へ行く度に多くのフルカラーの思い出が匂い付きで蘇ります。

そして現在、金石の砂丘の砂地は草にすっかり覆われてしまい、増えたクロマツや育ち始めた笹にニセアカシアは減り、見目は造成した盛り土の土手で全く砂丘だと分からなくなってしまいました。

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一部は『やすらぎの森』として風致区の公園整備が成されていますが、陸側の一部は宅地にされました。

広々としていた砂浜は、1965年に完成した犀川ダムの影響は少なかったのですが、1974年に犀川の支流の急流に造られた内川ダムによって土砂の流入が減り、更に1979年に完成した手取川ダムが白山流域から日本海へ運ばれていた手取川系の土砂を激減させた為に、年間7mの砂浜を波浪の侵食で失い続け、1990年代前半には、とうとう大野川河口部を僅かに残して砂浜は無くなりました。

そして現在、1996年から2015年の工期で行われている海へ340m~600m近くも張り出した埋め立てで、もう浜では無くなってしまいました。

それでも、流入土砂の自然体積部分とされた犀川河口の金石側の1/3の区間は、何れ埋まってしまうでしょうが、弓なりの砂浜が形成されて、ビーチのような景観になっています。

金石町の海原地区となる埋め立て工事が完了し、護岸提上だった道路なども整備し直されてしまうと、砂丘も公園区画以外は崩されて、内灘の砂丘のように宅地や商業地へと変わって行く事でしょう。

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思い出のお気に入りの場所が、利便を求める時の移り変わり故に失われて行くのは、悲しくて寂しい事です。

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過去の金石の海岸とお宮について:

金石の町は近代まで宮腰(みやのこし/みやこし)とも呼ばれていて、金石近くの高校へ通っている頃は、よく耳にしました。

金石の南隣の寺中町に猿田彦を祭る大野湊神社が在ります。

天照を祭る古の社に合祀しての創建は727年ですが、1252年に火災消失で宮腰(現在の金石)から東へ八丁離れた場所の、同じ大野庄内の離宮が在った現在の寺中の地に移されています。

当時、湿地帯の中の洪水でも島のように残る周囲より僅かに高い乾燥した離宮八幡の土地が選ばれたのには、貰い火による火事を防ぐ目的が有りました。

大野湊神社の場所を移す遷御は三度目で、寺中の地へ移る以前は犀川河口近くの町外れに在ったと思われます。

場所は1260年頃に、火伏せの神が祭られて創建された秋葉神社辺りだったのかも知れません。

合祀された創建時は、佐良獄(さがらだけ)と呼ばれた砂岩の山が、現在の『かないわ病院』の在る普正寺町の犀川河口南岸から突き出すように小高く聳えていて、その山頂の真西を向いた社に祭られていました。

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その頃の加賀から河北潟への広大な平野は、多くの湖沼が点在する大湿地帯で、頻繁に氾濫して蛇行する河川は河口も定まっていませんでした。

故に、佐良獄が存在した頃の犀川の流れは、現在のように金石の町を隔ててなのか、専光町の南外れから海へなのか、もっと南の白山市倉部町へ至っていたのか、分かっていません。

河口が何処にせよ古からの港町の金石は、海辺に聳える佐良獄の麓を人の腰に例え、頂にお宮を祭る山の腰に栄える町で宮腰と呼ばれていました。

犀川と大野川に挟まれた金石の海岸には、大湿地帯と手取川などの加賀地方の河川から土砂が今よりずつと大量に沿岸流で運ばれて、安原の砂丘と共に現在の内灘砂丘に匹敵するくらいの砂が高く堆積した砂山の広がりで、大きく海へ張り出していた事でしょう。

以後、乾燥して行く平野と変化する潮流に、海へ突出していた佐良獄は削り崩され、張り出していた金石砂丘は大きく流失されてしまったのです。

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現在に残る金石砂丘は、陸側のほんの一部だったのかも知れませんね。

勧進帳で有名な安宅の関が在った加賀の砂丘群、かつては丸い大きな石ばかりが転がる広大な松任の砂利浜、平家が陣を張った戦略要衝の佐良獄と金石砂丘、その北側の粟ヶ崎町から羽咋市まで長く続く内灘砂丘は、越前から能登へ至る古からの重要な交通路でしたが、乾燥していく平野に水田が増えて街道が整えられて行く戦国時代後期には、内灘砂丘以南の浜辺は流失して狭まり、やがて浜から運ばれて来る砂の量が飛び散らされる量より少なくなると、徐々に砂丘群は低くなだらかになってしまい、江戸期初めには人々や産業の往来が発達した土木技術で整備された街道へと移って行きました。

旧国道八号線は、加賀の平野部に整えられた北国街道、加賀地方の海沿いを通る北陸自動車道は、古代の砂丘や浜辺を伝う北陸道と道筋がほぼ同じです。

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平盛俊が佐良獄に陣を敷いたのは倶梨伽羅峠の戦いの1183年、火災消失による大野湊神社の三度目の遷御が1252年、1183年の佐良獄がどのような状態だったのか知り得ませんが、以後、僅か70年程で、佐良獄は崩れて消滅して行き、大野湊神社は金石の町へ遷御された後、火災で消失した事になります。

近年の1年間に7mも砂浜が消えた金石の浜以上の流失現象が起きたのです。

当時、離岸提や人工リーフなどの発想や工事技術が無くて、自然が安定させるまで為す術は有りませんでした。

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大野湊神社の大野は、大野庄/大野郷で、湊は、外港機能を共に持つ宮腰と大野の港の事です。

現在地に移った後に分社した神社が、金石砂丘の南端近くの住宅地に『西の宮』、普正寺町の『かないわ病院』脇の海側町外れに『西ノ宮』、普正寺町の南隣の専光寺町のグラウンド近くの防砂林際に『西之宮』の微妙に違う社号で、大野湊神社の西方の地の広範囲に鎮座しているのも、古からの影響力が如何に大きなモノだったかを伝えています。

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『やすらぎの森』傍の大山昨の山の神と大物主を祭る大野日吉神社は、創建が860年ですから大野湊神社と同様に租庸調以前の古から開かれた外港が在る重要な地を統べる戦略拠点だったのでしょう。

両神社は、布陣の地と源氏の軍勢に焼かれた、謂れの有る由々しき宮です。

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--- 金沢市くらしの博物館展示資料の写真考察 ---

1966年(昭和 41)7月に内灘砂丘最南端の粟ヶ崎地区から見た金石砂丘の北端(大野町側)です。

暈やけてはっきりしない白い大野灯台の背後に見える小高い丘のような砂丘は、現在よりも高い感じがしますね。

既に金沢港造りの浚渫工事が始まっていて櫓やクレーンが見られます。

金石砂丘と内灘砂丘を隔てるのは河北潟から流れる大野川のみだったのですが、国際貿易港として大野漁港の奥の大野川を広く深く拡張して金沢港が築港(12か年計画:1964年~1978年)され、更に大野川河口北岸の醤油醸造所の北側の砂丘を掘って新たに広い港口が造られました。

白い体操服姿は粟ヶ崎海岸へ海浜遠足に来ている金沢市内の小立野台地に在る紫錦台中学校の二年生か、三年生の生徒達で、女子の多くは夏の陽射しを避けて日傘を差しています。

市電の廃止が1967年2月なので、下石引から市電で金沢駅へ行き、そこから北陸鉄道の浅野川線に乗り換えて夏場だけの終点の粟ヶ崎海岸駅(金沢市粟崎町4丁目の浜側辺り:1972年/昭和47年8月31日が最終運転)で降りているのでしょう(それともバス遠足?)。

写真の辺りは今も砂地ですが、五郎島金時の芋畑になっていて無造作な立ち入りはできません。

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三又大杉(山中温泉菅谷町八幡神社)

途中から三本に分かれた幹の寄り添いと広がり具合が女性的に感じる樹高54mの杉の大木です。

樹齢は2300年で、幹周囲が8mと説明板に記されていました。

三つ幹なのは、もともと真っ直ぐな一本の幹だった大杉を伐採して帆柱用に高額で売ろうと算段していたところ、その翌朝に幹が三つに割れ分かれて売り物にならなくなっていたからだそうです。

この言い伝えは、たぶん謂れある場所の象徴的な事物は、大切にして粗末にするなという戒めなのでしょう。

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三又(みつまた)の大杉は国道364号線を山中温泉の旅館街を抜けた平岩橋で左へ折れて大聖寺川を渡ると、突き当たりの菅谷(すがたに)の郷に鎮守する八幡神社の苔生した境内に、待ち人の訪れを願う艶めかしい貴婦人の立ち姿の如く見えて来ます。

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国道364号線は菅谷へ折れずに山地を進んで県境の大内峠を越えると、永平寺や丸岡城へ至る古代や中世の物流や宗教交流に重要な街道でした。

応神天皇を祭神とする菅谷の八幡神社は、近くの栢野の大杉が植わる菅原神社と共に大聖寺へ至る街道口を管理する拠点で、この5000年前の縄文遺跡が在る菅谷の郷は、周囲の山々に巨石や岩壁が見られるように古代から守りに適した重要な地だったのだろうと考えます。

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環境や地理的に菅谷八幡神社の地も神社を創建する以前は、陣屋や砦などの遺構が在ったのかも知れませんね。

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栢野の大杉(山中温泉柏野町菅原神社)

1947年10月27日、第2回石川国体へ臨席に来られた昭和天皇が、途中休息した山中温泉の宿から地元の青年の案内で、小雨が降る中を自ら傘を差して歩いて来てまで御覧になり、それで『天覧の大杉』の別名でも呼ばれるようになった、石川県山中温泉柏野(かやの)町菅原(すがはら)神社に聳え立つ杉の大木、国の天然記念物指定名称『栢野の大スギ』です。

説明板には、幹周囲が9m、樹高54mと記され、5m辺りの高さで二又に分れています。

石川県には国の天然記念物に指定された、『三つ又大杉』『御仏供杉』『栢野の大杉』の三本の杉が有りますが、『栢野の大スギ』の樹齢は、近くの菅谷町八幡神社に植わる『三つ又大杉』と同じ2300年で、何か因果を感じます。

境内には他にも三本の大きな杉の神木が聳え、それらは「菅原神社の大スギ」として石川県指定天然記念物にされていて、根を傷めないように檜製の浮橋参道が設けられています。

境内の四本の杉は方形の形で植わる事から、原始の自然林ではなくて植樹されたと考えられています。

古代には海が迫り、海辺沿いや砂丘伝い、それと湿地を抜ける水路の交通が主だった中世まで、この辺りの陸路は山間の峠や山際の丘陵を越えて行く街道しか有りませんでした。

菅原神社の裏の、地元で「うえのかち」と呼ばれる高台には5000年前の縄文遺跡が在るように、古代から多くの人々が湧き出る温泉で病と傷を癒ながら暮らしていた、重要な生活拠点だったと考えられます。

菅原神社横の国道364号線を山へ向かい県境の大内峠を越えれば、福井県坂井市丸岡町山竹田に至り、其処で九頭竜川を渡ると永平寺へ、上流へ行くと勝山市の平泉寺白山神社に着きます。

倶利伽羅峠の戦い篠原の戦いで惨敗した平家の武士達が京都へ逃れて行くのにも、この峠を通っています。

明治に菅原神社と改称されるまで平安時代から菅原社とされ、その前の飛鳥・奈良時代には菅原寺と称されていて、更に弥生、古墳時代は、既に外敵の侵入を防ぐ関所や砦が設けられた攻めと守りの要衝の地になっていたのでしょう。

『天覧の大杉』や『三つ又大杉』は、その頃から育って来たと思うと、見上げて御覧になった植物学者でもある昭和天皇には、とても感慨深いモノが有った事でしょう。

 

PS:

所在地を兼ねる名称の『かや』の漢字は、『柏』の異体字の『栢』で書されています。

ブナ科の『柏』(かや/かしわ)は、端午の節句の供物で食される柏餅を包む芳香な葉の樹木で、古来は実の形を模して偏は『木』で同じですが、旁は『白』でなくて『百』や『斛』が用いられていました。

因みに中国のカシワの漢字は、『槲』(hu/フウ)です。

『柏』(bai/バイ)は、庭木としてよく植えられているセンジュ(千手)のコノテガシワ(子の手柏:ヒノキ科)で、ヒノキ科は柏科と書きます。

カシワの葉は翌年に新芽が出るまで、古い葉が落ちない特性から「代が途切れない」とされて、世継ぎの男子を祝う端午の節句では、塩漬けにした葉で包んで子々孫々繁栄の縁起を担ぎます。

『柏』は、名前の発音が似ている『樫』(カシ)と混同し易いですが、『樫』は常緑樹、『柏』は落葉樹で、葉の形も全く違う別の木です。

柏野……、古代はカシワの木がたくさん植わっていたのでしょう。

 

1947年の夏季(8月22日-24日)と秋季(10月30日-11月3日)に分けて石川県で行われた第二回国民体育大会で、大会歌の『若い力』が制定されました。

それ故なのか、石川県金沢市の小学校の運動会と金沢市内の小学六年生が集う合同体育大会では、ずっと『若い力』の男女合同マスゲームがプログラムとなっています。

あのメロディーと歌詞とフリツケは、今もモチベーションアップの良い意味でのトラウマになっていますね。

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横浜港大桟橋のノスタルジー

高校を卒業したばかりの四月の終わり、オートバイで行った横浜港の埠頭で初めて東京湾を見ました。

春とはいえ生憎の曇り空の寒さに耐えながら着いた横浜港の埠頭の先端は、そこだけポッカリと晴れ間が広がって春の眩しい陽射しは暖かく、埠頭のコンクリートの白い輝きと真っ青な波の連なる煌きが忘れられませんでした。

それから随分経って、仕事帰りに寄った横浜港で其の埠頭を探しましたが、地図も見ずに潮の香りだけが頼りのアバウトさで、何度も迷いながら辿り着いた埠頭は名前も知らず、埠頭前の踏み切りのロケーションも定かではなくて、場所のトレースが出来ずに分からず仕舞いでした。

そして、とうとうアニメDVD「コクリコ坂」の映像特典に、あの埠頭を見たのです。

(「コクリコ坂」の舞台になったのは氷川丸の背景に見える丘陵の南側で、本牧山頂公園から本牧臨海公園の辺りかな)

それは「横浜港大桟橋」。

埠頭ではなくて桟橋でした。

知らずに行った十八才の頃は「メリケン波止場」と呼ばれていたようです。

最初に入ろうとした別の埠頭は「関係者以外はダメだ」と断られたりして、あの時は本牧埠頭が完成したばかりなのと、「みなとみらい辺り」や「大黒埠頭」は埋め立てたり改修したりで、やたらと工事中ばかりだったのを覚えています。

様変わりの情報を知り得た後、出張帰りに訪れた大桟橋は以前と全然違っていました。

造りは桟橋ではなくて公園みたいな岸壁です。

長さはそのままに幅を拡張された大桟橋は、愛称の「鯨の背中」のように緩やかに盛り上がって、まるで板張りの低い丘の様です。

歩き具合は全然違いますが、稜線のカーブや勾配などの見た目は海辺の砂丘みたいな感じですね。

内部の「鯨のお腹」にはショップ、レストラン、カフィ、イベントスペースなどが有って、これまでに多くの国際クルーズの巨大客船が接岸しています。

もう、あの頃のようにバイクや車を走らせて自由に先端まで行く事はできません。

板張りの大桟橋の先端から白いベイブリッジを見ていると、無計画に「行こう」と言ってタンデムさせた責任の達成感、風向きと感だけで走っていた不安からの解放感、そして、暖かい陽射しに照らされた安堵感、更に何処を通って来たのか分からない道を戻る億劫さで、せっかくカメラを持って来ていたのに写真を撮るのを忘れてしまい、悔しがったのを思い出します。

夕暮れの「鯨の背中」からは、キング、クィーン、ジャックの横浜三塔が見えて、ノスタルジーとロマンスを感じてしまいました。

次は春の晴れた日に大事な人と二人で、上書きするように歩きたいかも……。

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立戸の浜(石川県鳳珠郡穴水町沖波)

中学校からの友人達と能登半島一週を目指した高校二年の夏の自転車ツーリングは、雨に祟られた初日に七尾市の銭湯で濡れて冷えた身体を温めても、穴水町乙ヶ崎のお寺で親切に泊めて貰っても、雨の中の走行で下がったモチベーションは回復しないままに金沢市から輪島市を経て門前町へと、海岸線を先端の禄剛崎へは向かわずに峠を越えて日本海側の外浦から金沢へ戻ってしまい、能登半島の半周だけで挫折していました。

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そのリベンジに高校三年で再び集って決行した三泊四日の自転車ツーリングは、天候に恵まれて初日は金沢市から輪島市の曽々木海岸まで行ってテント泊。

二日目は前回に断念した禄剛崎狼煙を巡り、富山湾、七尾湾の内浦を海岸線沿いに気持ち良く先へ先へと走っていましたが、見過ごしたのか、ルートを間違えたのか、キャンプ場を見付けられないまま、日没後の夕闇が迫る中、道路際の場所も名も知らない砂浜に急ぎテントを張りました。

そこで晩飯に何を食べたのかも覚えていませんが、対岸の能登島と道路沿いの疎らな民家や街灯の小さな灯りに満天の星空だけの真っ暗な海を、珠洲市の蛸島と穴水町へ向かう線路の音を遠くに聞きながら真っ裸で泳いでいたのを、ぼんやりと記憶しています。

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日の出直後の肌寒さに目覚めた翌朝は火を焚いて温まろうとテントから這い出た目に、朝の鋭い陽射しをキラキラと反射して輝く水面が飛び込んで来ました。

凪いで平らに広がった水面は波音もせず、近寄ると触れるのが怖いくらいに透明で、水底の硬い砂地に刻まれた波の文様がはっきり見えます。

渚に厚く打ち上げられて枯れた海草を踏み越え、千切れて流されたホンダワラやモズクが波打ち際に太い海蛇のように巻く中へ、気味悪がりながら爪先を入れた海水は何処かで湧水しているのかと思うほど冷たくて、びっくりでした。

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それでも浸かれるくらいの深さまで行って潜ると、自分が立てた漣で透過する陽射しの帯の揺らぐ下に、波紋を刻まれた遠浅の白くて平らな海底が何処までも広がり、彼方の深みだけが近付くのを拒むように黒ずんでいました。

美しくて、穏やかで、静寂で、そして、誰もいない透明な海。

それまで見た事もない綺麗な海と浜に、すっかり魅了されて一遍に気に入ってしまいました。

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二百メートルもない小さな浜の名は、近くのバス停に「立戸ノ浜」と示されていましたが、その読みが「りっと」や「たちど」など、正確には分からなくて、「たっとのはま」だと知ったのはずっと後の事でした。

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お陰で、その日は快晴プラス早朝からの気分の良さで一気に外浦の羽咋市柴垣のキャンプ場まで走る事ができ、翌日も強くインプリンティングされた透明な気持ちに疲労感も無く、無事に金沢へ帰り着けました。

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以後、数年置きに訪れている「立戸の浜」ですが、いつの間にか、シャワー室や更衣室が並び、遠浅の海もフロート付きロープで仕切られて海水浴場として整備されましたが、諸橋ダムが出来てトヤン高原の土砂が流れ込まなくなった所為か、潮流の変化や海面上昇していたのか、一時は道路間際まで渚が迫って来て海水浴場にならない危険な状態でした。

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砂浜流失対策として、ちょっと沖に離岸堤が二つ並べて設置されて砂浜と遠浅は戻りましたが、ごつごつした暗い壁のような離岸堤は対岸の能登島の北端風景を隠してしまい、差し込む光線具合も変化して景観を悪くしています。

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離岸流や砂の体積密度も変わったみたいで、水底の砂地が以前より固くなった気がします。

現在は砂の溜まりが加速しているようで、遠浅が初めて泳いだ時の三分の二以下に短くなって来ていています。

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このままでは十年を待たずに離岸堤と砂州で繋がりそうで、砂州ができないように堤上部の消波ブロックを取り除いて、景観も戻る海面下の人口リーフタイプにすればと考えるのですが、効果と安定は施工してみないと分からないですね。

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薄っすらと灰色に砂鉄が混じってそうな浜辺の白い砂は、千里浜の砂よりも細かくて濡れた波打ち際まで車を進めてもタイヤが沈みません。

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背景の岬に見える富士山のような形の山は、頂上が平らに整地されて古代から加夫刀比古神社(カブトヒコ)神社が鎮座する標高67mの円山(まるやま)です。

今は円山と表記されていますが、近代までシルエットが兜や甲(こう)の形に見える事から甲山(かぶとやま)と呼ばれていて、周辺の地名も穴水町甲地区と戦闘的です。

能登が越後武将の支配下だった戦国時代には、円山の近くに砦規模の甲山城が在った遺構と記録が有るので、地域の戦略的要衝だったのでしょう。

タブノキが多い鎮守の森を含め、円山の岬全体の森が魚介類の繁殖と保護を目的とする魚付き保安林に指定されていて、伐採や開発は制限されています。

この辺りのランドマークとしてはトヤン高原の二子山(181m)が高いのですが、形的に円山が目立っています。

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PS:

能登半島一周から戻った数日後に文通していた片想いの人から書中見舞いの葉書が届きました。

五年も文通していて初めて届いた書中見舞いの差し出し住所は、鳳珠郡穴水町明千寺。

直ぐに地図で場所を調べると、あの透明な遠浅の海の近くです。

そこは自転車ツーリングでテントを張る場所を探す黄昏時に、想いの人がいる明千寺の直ぐ近くを通っていたのでした。

裏面に描かれた自筆のイラストを一目見て愛車のホワイトダックスを全速で走らせて能登へ向かいました。

茹るような炎天下、翌檜の森が広がるトヤン高原をどうにか抜けて辿り着いた明千寺の町は、租庸調の古に創建された古刹「明泉寺」が在る小さな集落でした。

喉の渇きを癒そうと何気に立ち寄った門前の雑貨屋で、偶然にも想い人がいるのを見て、心構えの出来ていない不意の出逢いに挨拶も無しで逃げてしまいました。

逃げた不甲斐無さを悔やみ、会いに戻るべきか悩んだ場所が「立戸の浜」です。

甚だしいシャイさに結局、会いには戻らずに帰ってしまい、後悔だけが残ってしまった文通相手でした。

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