遥乃陽 diary

日々のモノトニィとバラエティ 『遥乃陽 diary』の他に『遥乃陽 blog 』と『遥乃陽 novels 』も有ります

世の中は感動と憂いに満ちている。シックスセンスが欲しい!

栢野の大杉(山中温泉柏野町菅原神社)

1947年10月27日、第2回石川国体へ臨席に来られた昭和天皇が、途中休息した山中温泉の宿から地元の青年の案内で、小雨が降る中を自ら傘を差して歩いて来てまで御覧になり、それで『天覧の大杉』の別名でも呼ばれるようになった、石川県山中温泉柏野(かやの)町菅原(すがはら)神社に聳え立つ杉の大木、国の天然記念物指定名称『栢野の大スギ』です。

説明板には、幹周囲が9m、樹高54mと記され、5m辺りの高さで二又に分れています。

石川県には国の天然記念物に指定された、『三つ又大杉』『御仏供杉』『栢野の大杉』の三本の杉が有りますが、『栢野の大スギ』の樹齢は、近くの菅谷町八幡神社に植わる『三つ又大杉』と同じ2300年で、何か因果を感じます。

境内には他にも三本の大きな杉の神木が聳え、それらは「菅原神社の大スギ」として石川県指定天然記念物にされていて、根を傷めないように檜製の浮橋参道が設けられています。

境内の四本の杉は方形の形で植わる事から、原始の自然林ではなくて植樹されたと考えられています。

古代には海が迫り、海辺沿いや砂丘伝い、それと湿地を抜ける水路の交通が主だった中世まで、この辺りの陸路は山間の峠や山際の丘陵を越えて行く街道しか有りませんでした。

菅原神社の裏の、地元で「うえのかち」と呼ばれる高台には5000年前の縄文遺跡が在るように、古代から多くの人々が湧き出る温泉で病と傷を癒ながら暮らしていた、重要な生活拠点だったと考えられます。

菅原神社横の国道364号線を山へ向かい県境の大内峠を越えれば、福井県坂井市丸岡町山竹田に至り、其処で九頭竜川を渡ると永平寺へ、上流へ行くと勝山市の平泉寺白山神社に着きます。

倶利伽羅峠の戦い篠原の戦いで惨敗した平家の武士達が京都へ逃れて行くのにも、この峠を通っています。

明治に菅原神社と改称されるまで平安時代から菅原社とされ、その前の飛鳥・奈良時代には菅原寺と称されていて、更に弥生、古墳時代は、既に外敵の侵入を防ぐ関所や砦が設けられた攻めと守りの要衝の地になっていたのでしょう。

『天覧の大杉』や『三つ又大杉』は、その頃から育って来たと思うと、見上げて御覧になった植物学者でもある昭和天皇には、とても感慨深いモノが有った事でしょう。

 

PS:

所在地を兼ねる名称の『かや』の漢字は、『柏』の異体字の『栢』で書されています。

ブナ科の『柏』(かや/かしわ)は、端午の節句の供物で食される柏餅を包む芳香な葉の樹木で、古来は実の形を模して偏は『木』で同じですが、旁は『白』でなくて『百』や『斛』が用いられていました。

因みに中国のカシワの漢字は、『槲』(hu/フウ)です。

『柏』(bai/バイ)は、庭木としてよく植えられているセンジュ(千手)のコノテガシワ(子の手柏:ヒノキ科)で、ヒノキ科は柏科と書きます。

カシワの葉は翌年に新芽が出るまで、古い葉が落ちない特性から「代が途切れない」とされて、世継ぎの男子を祝う端午の節句では、塩漬けにした葉で包んで子々孫々繁栄の縁起を担ぎます。

『柏』は、名前の発音が似ている『樫』(カシ)と混同し易いですが、『樫』は常緑樹、『柏』は落葉樹で、葉の形も全く違う別の木です。

柏野……、古代はカシワの木がたくさん植わっていたのでしょう。

 

1947年の夏季(8月22日-24日)と秋季(10月30日-11月3日)に分けて石川県で行われた第二回国民体育大会で、大会歌の『若い力』が制定されました。

それ故なのか、石川県金沢市の小学校の運動会と金沢市内の小学六年生が集う合同体育大会では、ずっと『若い力』の男女合同マスゲームがプログラムとなっています。

あのメロディーと歌詞とフリツケは、今もモチベーションアップの良い意味でのトラウマになっていますね。

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横浜港大桟橋のノスタルジー

高校を卒業したばかりの四月の終わり、オートバイで行った横浜港の埠頭で初めて東京湾を見ました。

春とはいえ生憎の曇り空の寒さに耐えながら着いた横浜港の埠頭の先端は、そこだけポッカリと晴れ間が広がって春の眩しい陽射しは暖かく、埠頭のコンクリートの白い輝きと真っ青な波の連なる煌きが忘れられませんでした。

それから随分経って、仕事帰りに寄った横浜港で其の埠頭を探しましたが、地図も見ずに潮の香りだけが頼りのアバウトさで、何度も迷いながら辿り着いた埠頭は名前も知らず、埠頭前の踏み切りのロケーションも定かではなくて、場所のトレースが出来ずに分からず仕舞いでした。

そして、とうとうアニメDVD「コクリコ坂」の映像特典に、あの埠頭を見たのです。

(「コクリコ坂」の舞台になったのは氷川丸の背景に見える丘陵の南側で、本牧山頂公園から本牧臨海公園の辺りかな)

それは「横浜港大桟橋」。

埠頭ではなくて桟橋でした。

知らずに行った十八才の頃は「メリケン波止場」と呼ばれていたようです。

最初に入ろうとした別の埠頭は「関係者以外はダメだ」と断られたりして、あの時は本牧埠頭が完成したばかりなのと、「みなとみらい辺り」や「大黒埠頭」は埋め立てたり改修したりで、やたらと工事中ばかりだったのを覚えています。

様変わりの情報を知り得た後、出張帰りに訪れた大桟橋は以前と全然違っていました。

造りは桟橋ではなくて公園みたいな岸壁です。

長さはそのままに幅を拡張された大桟橋は、愛称の「鯨の背中」のように緩やかに盛り上がって、まるで板張りの低い丘の様です。

歩き具合は全然違いますが、稜線のカーブや勾配などの見た目は海辺の砂丘みたいな感じですね。

内部の「鯨のお腹」にはショップ、レストラン、カフィ、イベントスペースなどが有って、これまでに多くの国際クルーズの巨大客船が接岸しています。

もう、あの頃のようにバイクや車を走らせて自由に先端まで行く事はできません。

板張りの大桟橋の先端から白いベイブリッジを見ていると、無計画に「行こう」と言ってタンデムさせた責任の達成感、風向きと感だけで走っていた不安からの解放感、そして、暖かい陽射しに照らされた安堵感、更に何処を通って来たのか分からない道を戻る億劫さで、せっかくカメラを持って来ていたのに写真を撮るのを忘れてしまい、悔しがったのを思い出します。

夕暮れの「鯨の背中」からは、キング、クィーン、ジャックの横浜三塔が見えて、ノスタルジーとロマンスを感じてしまいました。

次は春の晴れた日に大事な人と二人で、上書きするように歩きたいかも……。

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立戸の浜(石川県鳳珠郡穴水町沖波)

中学校からの友人達と能登半島一週を目指した高校二年の夏の自転車ツーリングは、雨に祟られた初日に七尾市の銭湯で濡れて冷えた身体を温めても、穴水町乙ヶ崎のお寺で親切に泊めて貰っても、雨の中の走行で下がったモチベーションは回復しないままに金沢市から輪島市を経て門前町へと、海岸線を先端の禄剛崎へは向かわずに峠を越えて日本海側の外浦から金沢へ戻ってしまい、能登半島の半周だけで挫折していました。

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そのリベンジに高校三年で再び集って決行した三泊四日の自転車ツーリングは、天候に恵まれて初日は金沢市から輪島市の曽々木海岸まで行ってテント泊。

二日目は前回に断念した禄剛崎狼煙を巡り、富山湾、七尾湾の内浦を海岸線沿いに気持ち良く先へ先へと走っていましたが、見過ごしたのか、ルートを間違えたのか、キャンプ場を見付けられないまま、日没後の夕闇が迫る中、道路際の場所も名も知らない砂浜に急ぎテントを張りました。

そこで晩飯に何を食べたのかも覚えていませんが、対岸の能登島と道路沿いの疎らな民家や街灯の小さな灯りに満天の星空だけの真っ暗な海を、珠洲市の蛸島と穴水町へ向かう線路の音を遠くに聞きながら真っ裸で泳いでいたのを、ぼんやりと記憶しています。

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日の出直後の肌寒さに目覚めた翌朝は火を焚いて温まろうとテントから這い出た目に、朝の鋭い陽射しをキラキラと反射して輝く水面が飛び込んで来ました。

凪いで平らに広がった水面は波音もせず、近寄ると触れるのが怖いくらいに透明で、水底の硬い砂地に刻まれた波の文様がはっきり見えます。

渚に厚く打ち上げられて枯れた海草を踏み越え、千切れて流されたホンダワラやモズクが波打ち際に太い海蛇のように巻く中へ、気味悪がりながら爪先を入れた海水は何処かで湧水しているのかと思うほど冷たくて、びっくりでした。

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それでも浸かれるくらいの深さまで行って潜ると、自分が立てた漣で透過する陽射しの帯の揺らぐ下に、波紋を刻まれた遠浅の白くて平らな海底が何処までも広がり、彼方の深みだけが近付くのを拒むように黒ずんでいました。

美しくて、穏やかで、静寂で、そして、誰もいない透明な海。

それまで見た事もない綺麗な海と浜に、すっかり魅了されて一遍に気に入ってしまいました。

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二百メートルもない小さな浜の名は、近くのバス停に「立戸ノ浜」と示されていましたが、その読みが「りっと」や「たちど」など、正確には分からなくて、「たっとのはま」だと知ったのはずっと後の事でした。

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お陰で、その日は快晴プラス早朝からの気分の良さで一気に外浦の羽咋市柴垣のキャンプ場まで走る事ができ、翌日も強くインプリンティングされた透明な気持ちに疲労感も無く、無事に金沢へ帰り着けました。

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以後、数年置きに訪れている「立戸の浜」ですが、いつの間にか、シャワー室や更衣室が並び、遠浅の海もフロート付きロープで仕切られて海水浴場として整備されましたが、諸橋ダムが出来てトヤン高原の土砂が流れ込まなくなった所為か、潮流の変化や海面上昇していたのか、一時は道路間際まで渚が迫って来て海水浴場にならない危険な状態でした。

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砂浜流失対策として、ちょっと沖に離岸堤が二つ並べて設置されて砂浜と遠浅は戻りましたが、ごつごつした暗い壁のような離岸堤は対岸の能登島の北端風景を隠してしまい、差し込む光線具合も変化して景観を悪くしています。

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離岸流や砂の体積密度も変わったみたいで、水底の砂地が以前より固くなった気がします。

現在は砂の溜まりが加速しているようで、遠浅が初めて泳いだ時の三分の二以下に短くなって来ていています。

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このままでは十年を待たずに離岸堤と砂州で繋がりそうで、砂州ができないように堤上部の消波ブロックを取り除いて、景観も戻る海面下の人口リーフタイプにすればと考えるのですが、効果と安定は施工してみないと分からないですね。

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薄っすらと灰色に砂鉄が混じってそうな浜辺の白い砂は、千里浜の砂よりも細かくて濡れた波打ち際まで車を進めてもタイヤが沈みません。

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背景の岬に見える富士山のような形の山は、頂上が平らに整地されて古代から加夫刀比古神社(カブトヒコ)神社が鎮座する標高67mの円山(まるやま)です。

今は円山と表記されていますが、近代までシルエットが兜や甲(こう)の形に見える事から甲山(かぶとやま)と呼ばれていて、周辺の地名も穴水町甲地区と戦闘的です。

能登が越後武将の支配下だった戦国時代には、円山の近くに砦規模の甲山城が在った遺構と記録が有るので、地域の戦略的要衝だったのでしょう。

タブノキが多い鎮守の森を含め、円山の岬全体の森が魚介類の繁殖と保護を目的とする魚付き保安林に指定されていて、伐採や開発は制限されています。

この辺りのランドマークとしてはトヤン高原の二子山(181m)が高いのですが、形的に円山が目立っています。

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PS:

能登半島一周から戻った数日後に文通していた片想いの人から書中見舞いの葉書が届きました。

五年も文通していて初めて届いた書中見舞いの差し出し住所は、鳳珠郡穴水町明千寺。

直ぐに地図で場所を調べると、あの透明な遠浅の海の近くです。

そこは自転車ツーリングでテントを張る場所を探す黄昏時に、想いの人がいる明千寺の直ぐ近くを通っていたのでした。

裏面に描かれた自筆のイラストを一目見て愛車のホワイトダックスを全速で走らせて能登へ向かいました。

茹るような炎天下、翌檜の森が広がるトヤン高原をどうにか抜けて辿り着いた明千寺の町は、租庸調の古に創建された古刹「明泉寺」が在る小さな集落でした。

喉の渇きを癒そうと何気に立ち寄った門前の雑貨屋で、偶然にも想い人がいるのを見て、心構えの出来ていない不意の出逢いに挨拶も無しで逃げてしまいました。

逃げた不甲斐無さを悔やみ、会いに戻るべきか悩んだ場所が「立戸の浜」です。

甚だしいシャイさに結局、会いには戻らずに帰ってしまい、後悔だけが残ってしまった文通相手でした。

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五十谷の大杉(石川県白山市鳥越五十谷)

石川県鳥越(とりごえ)大日スポーツセンター(旧大日スキー場)近くに鎮守する五十谷(ごじゅうだに)八幡神社の境内で、逞しい雄大な枝ぶりで聳える大杉です。

樹齢1200年の裏杉(芦生杉:あしう すぎ)で、太い枝の広がりが圧倒されるくらいに見事です。

樹高は39m、幹周は7.9mで石川県内では9番目に太い杉だそうです。

裏杉は日本海側に多く、独特の杢目が美しい杉板になります。

五十谷八幡神社へ至る道は、手前の二又を左へ行くと大日川ダムが在り、神社を過ぎて左へ折れたら以前は大日スキー場だった鳥越大日スポーツセンター、右に折れて一山越えると尾小屋鉱山跡のマインロードが在る尾小屋町、そして小松市の木場潟近くへ通じています。

中世や近世では金山だった尾小屋銅山や金平鉱山へ抜ける神社前の寂しい道は、秘密にされた最重要道路で、何箇所もの関所や詰所に陣屋も在ったのかも知れません。

当時は鳥越から赤穂谷や金平へ繋がる道も、五十谷から尾小屋へ抜ける道も無く、厳しい領主支配の管理下で唯一、五十谷から鳥越大日スポーツセンター、そして、尾小屋鉱山へ至る山越えが採掘して精錬された金銀を城内へ運ぶ最短ルートだったのでしょう。

鳥越大日スポーツセンター辺りの沢も金山谷とされているので、金鉱や砂金の採掘が行われていたのだろうと考えています。

大杉が植わる神社は10世紀初めから550年の間、加賀国の守護職に就いて金沢市の山科で採れる砂金と共に尾小屋の金鉱を財源にする冨樫氏は、治山治水と管理の安泰を願って八幡社(1945年に八幡神社に改称)を創建して鎮守にしたのでしょう。

故に加賀藩の支配期も五十谷は厳重な立ち入り制限がなされ、この辺りまで前田藩主が鷹狩に来ていたのも納得できます。

PS:

八幡神社の上隣りに建つ、犬が吠えて音楽の鳴る怪しそうな納屋と土壁の家は、つなぎ無しの手打ち蕎麦が人気の『登龍門』さんでした。

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御仏供杉(石川県白山市吉野)

白山市吉野谷の工芸の里に、こんもりと鎮守の森のような姿で茂る御仏供(おぼく)杉です。

樹齢670年の空へ向かって根を張るような枝ぶりの裏杉で、樹高は24m、幹周は7.2mと有ります。

伝承では、京都の寺で修行していた大陸(元)に渡った高僧が帰国後にここの山中に祇陀(ぎだ)寺を開山しましたが、肥後国へ招く領主の菊地氏に懇願されて吉野谷を去るにあたり、「この杖が根付いて繁茂すれば此処は仏法が盛んになるだろう」と、地に挿した杖代わりの杉の小枝が大きく育った姿形から御仏供杉と呼ばれたとされています。

御仏供杉の名は、オムスビ形の三角錐の枝振りから仏前に供える御仏飯の「おぼくさま」に見立てて、御仏供杉になったそうですが、170年後、この地を戦国の世に百年近くも支配した加賀一向一揆の信心深い門徒衆には、雲龍山の山壁や周辺の田畑が落葉や枯れ野になる晩秋から新春の色を背景に杉の常緑の枝振りが映えて、御仏供杉が御経を唱える高僧の姿に、雪が降り積もった様は大きな「おぼくさま」をリアルなイメージにしていた事でしょう。

当時は寄り添うように纏まっていただろう枝振りが成長するにつれて離れて行き、高さも揃った今では一本の木なのに森のように見えています。

祇陀寺は現在、御仏供杉近くの雲龍山の麓に跡地らしき場所が有るだけです。

 

大陸帰りの高僧が大智禅師、朝鮮半島経由の帰国で潮流に流された船が着いたのは宮越(現、金沢市金石町)の港、大智禅師の生誕地は九州肥後の国、菊池氏は肥後の国を中心とした九州の一大勢力。

鎌倉幕府が衰退してきて朝廷寄りになった菊池氏は、所領地出身で大陸帰りの高僧を知り、その法力の加護で一族の繁栄を得ようと高待遇で帰郷させると、約束通りに聖護寺を創建して一族を禅宗に帰依させました。

更に、大智禅師を敬う菊池氏は廣福寺も建立していますから、伝承は、ちゃんと歴史として繋がっている中のエピソードになっていますね。

 

PS:
我が家では御仏飯を「おぼくさま」と言わずに「ごぼくさん」と言っています。

御仏供の読みは「おぼく」の他に、説明板のルビは「おぶく」、その下の黒御影石には「おぼけ」とルビが彫られて、整合というか統一しないのでしょうか?

吉野谷や鳥越に代々住まう地元の人達は、何と呼んでいるのでしょうねぇ?

 

参考:

年代的に、大智禅師(1290年~1367年)は1314年に大陸へ渡って1324年に帰国。

肥後への帰郷が、たぶん1333年頃で、聖護寺は1338年に創建されて、その年に宗家の末永い纏まりと繁栄を願う菊池武重は内紛を憂いて、一族を禅宗に帰依させています。

廣福寺の建立は1357年とされていますが、帰依しても内紛が治まらない菊池氏に嫌気の差す大智禅師は、有田氏に招かれて1353年に肥前島原へ移り、水月山円通寺を創建しています。

肥前島原へ招かれるのと廣福寺の建立に4年のダブりが生じていますが、1330年に廣福寺を建立したとする説も有るので、もう少し建立が早かったのかも知れません。

それに、当時は南北朝の戦乱で、菊池氏と有田氏は共に足利幕府を敵として共闘する南朝側でしたから、互いの領地を行き来するのに、さして支障が無かったと考えられますし、まして両領主の師である高僧の大智禅師は自由に往来できていたのでしょう。

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百年の孤独 と 百年孤独

以前、赴任先のシンセンの工場で「貴重な酒が手に入った」と同僚からいただいた白酒『百年孤独』と、愛飲している麦焼酎『百年の孤独』の比較フォトです。

並べて比較すると一目瞭然ですが、単品だと、知らない人は中国でも『百年の孤独』を販売しているのかと買ってしまうみたいです。

『百年孤独』という名前とパッケージの大きさが違うので、パクリやモドキとは言い切れないのですが、思い込みで購入しそうなネーミングと『百年の孤独』に似せた緻密なパッケージデザインは他社の白酒に無い高級感で、情報不足の初心者やマニア層の購買欲を誘う狙いが有ると思われます。

『百年孤独』の中身は中国の白酒で、『百年の孤独』の味とは趣向に違いがあります。

白酒の『百年孤独』の製造元は、『百年の孤独』とは別の違うオリジナルだと言い張っていますが、中国で高級感を印象付けるパッケージは、もっとカラフル(赤と黄)でハデハデ(金と銀)にしなければならないので、ネームバリューが無ければシックな装いにしないですね。

『百年の孤独』の名は、とある一族の村の創設から隆盛と衰退を経て滅亡に至る百年間を綴った、コロンビアのノーベル賞作家ガブリエル・ガルシア・マルケスの長編小説の題名から付けられているそうですが、まだ読んでいません。

中国では高校の授業でノーベル賞と共に習うので『百年孤独』の名を多くの人が知っていて、小説愛好家なら大抵は読んでいますが、それでも白酒の『百年孤独』は小説絡みじゃなさそうかな。

麦焼酎『百年の孤独』の店頭販売は特約店のみですが、少ない数量の為に購入は抽選になっています。

このアルコール40%の麦焼酎は年季の入ったウイスキーの味わいですが、けっしてネームの百年も熟成をしているわけではなく、原酒が長期間貯蔵の熟成で素晴らしく絶妙な味わいの麦焼酎になったのは、創業以来の受け継がれた百余年の伝統技術の賜物という意味の百年なのです。

(これからもずっと技術が受け継がれて、『百五十年の孤独』や『二百年の孤独』と、小説の絡み以上の孤高の味わいになって行く事を願っています)

オリジナルの外箱のフタの綴じシロに、ジャズのプレーヤー『ERIC DOLPHY』の言葉が印刷されています。

『When you hear music, after it's over, it's gone in the air.You can never capture it again』

『あなたが聴いたあと、音楽は彼方へ消え去って、二度とは触れられないのです』

『曲と歌は消えてしまう。例え録音しても、その曲を初めて聴いた瞬間は、一度しか訪れない。その一瞬が全てだ!』

今の一瞬、一瞬を大切にして下さい…、そんな一期一会の意味なのでしょう。

白酒『百年孤独』のパッケージの説明文には孤高の酔い加減と、イギリスに永久割譲された香港やポルトガルに統治されたマカオの返還を百年に絡ませていますから、出逢いの想いや興亡の精神は無いのかも知れません。

『百年の孤独』の香りに触れる瞬間に、唇を濡らす一瞬に、「これは焼酎なのか?」と疑わせる衝撃は、『百年孤独』の「白酒じゃんか!」と感じさせるのとは、大きな隔たりが有りますね。

私的にオリジナルは、オンザロックで飲むのが最高で、偶に真冬のスキー場の天辺で、ザラメの新雪にマブして齧る『百年の孤独』と、雪雲の切れ間から差し込む陽射しで温まってます。

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三日間の幸福 未来はHappy endに変えられる

ライトノベル『三日間の幸福』(出版 メディアワークス 書籍サイズ:文庫)の紹介です。

電波加減が素敵な著者は『スターティング・オーヴァー』の三秋縋さんで、読み易い文体とストーリーセンスが好きす。

初版発行が2013年12月25日X'masの作品。

X'masは遣り直しが上手くいって新たな未来がスタートする日ですね。

 

死に至る直前に気付けた幸せは、死する瞬間まで維持されて死を自覚したのでしょうか?

プロローグの例えの質問で『なにか』が売るように求めたのは、質問した先生が受け持つクラスの小学五年生達個人の残りの寿命の半分だったのでしょうか?

『なにか』は交渉相手の寿命が分かるという前提で、交渉時点で知る相手の人生の半分ではなくて寿命という時間の長さの半分を求めたの理解で良いのでしょうか?

人生の半分ならば、『なにか』は交渉相手の過ごす人生も読めるという事になりますが、人生を半分に出来る定義は至難です。

交渉相手の十歳の子供が七十歳まで生きるとして、残りの六十年間の前半分の三十歳までをパラサイトした『なにか』が使い、パラサイトされた子供は『なにか』が出て行った後の『なにか』の使われた人生前半に大いに影響された三十年間の余生を送るとなるので、厳密な人生の半分にはならないですね。

時間なら交渉相手を死に至らなければ、交渉結果の時間内で衣食住付きの奴隷として扱えるのですが、奴隷だと『なにか』が求めている『成る』のとは違ってきます。

健康の取引だと、移植可能な臓器などの肉体の部位が対象になるのでしょうか?

健康を失い病勝ちになりながら生き長らえる、大半を無くして床に臥せながら寿命を全うする、得られた報酬で自分の健康は取り返せない……、そんな重いリスクが有るのに取引をするのは、自己犠牲を必要とする理由が有るからかも知れません。

それで、時間でも、人生でも、健康でもなくて、求めるモノが寿命になっちゃうのでしょう。

『なにか』が求める三十年の対価は、十歳の子供でも可能性が在る時間としての寿命じゃなくて、寿命が尽きるまでの内容を換算した値になるのだろう。

例えば、将来に大学を卒業してもニートのヒッキーで、衣食住や欲しい物は全て親に宛がわれて、老後は生活保護を受けての孤独死するまでが見えてしまうのでしょうか?

それでも、査定がゼロやマイナスだと取引にならないですから最低額の対価となるのでしょうか?

そして、寿命が半分になったと認識した子供は人生内容がリセットされるのだろうか?

『なにか』が交渉で得た寿命は、内容がリセットされて書き込み無しの寿命時間になるのだろうか?

『最低額の対価』だけど、そんな他人評価の最低人生でも、個人として尊厳を持ち、その状態と状況を望み、日々を嬉しい喜びの楽しい気分で過ごすなら、他人視点のプラス・マイナス査定とは掛け離れた価値を持つのではないだろうか。

望まなくて浮き上がろうと足掻き続けても、思惑と現実のギャップで陥る気持ちの沈み込みと被害意識に病む心と身体に遣る気は失せ、全てが他人の所為の悲嘆に喘ぐ日々ならば、査定が最低額になるのを理解して自覚すべきだろう。

それに、自分の生き様は波乱万丈と思い返せても、己で『太い人生』と意識できないだろう?

などなど、勝手に疑問と妄想を膨らませています。

 

もう、十数回は読み返している『三日間の幸福』は、読む度に興味深さが補完されて楽しめます。

『スターティング・オーヴァー』同様、『三日間の幸福』の主人公も自虐のマスターベーションさが好い加減で描かれていて嬉しいです。

無愛想『ミヤギ』は、アニメチックなツンデレセリフから十五、六歳なイメージで、まあ、生い立ちから二十歳くらいでも幼さが残るのだろうと思いますが、ビジネスライクに有りかもと面白いです。

 

未来は、これから読む物語のように、今から観る映画のように、既に起承転結が描かれている時間をトレースするのではなくて不確定で、モチベーション次第で明るくも、暗くもなるでしょう。

明るい未来にするには、それに至るモチベーションを得る為の情報が不可欠です。

希望の有る明るい未来への可能性が有る情報を現在や過去に求めて、心を満たさなくてはなりません。

それは『今』や『現在』が『満たされた』ではなくて、『満たされる』で積み上げて行くのです。

明るい可能性の情報で満たされる心は幸せと安らぎを感じるでしょう。

でも、その幸せを『必ず死ぬ』や『死ぬに決まっている』などと交換して得られるのは、納得できないですね。

前作の『スターティング・オーヴァー』も、『三日間の幸福』も、二十歳を区切りとされていますが、作者は成人定義の二十歳に何かしらの心理的な抱えているモノが有るのでしょうか。

厭な事は多くても、怖いモノが何も無いと錯覚していた私の二十歳は、静岡の日本平の麓で炊事、風呂、トイレが共同の四畳半一間のアパートに一人暮らしをしていて、単気筒500ccのトレールバイクで赤と青のツインスターの会社へ通っていました。

そして、身体の障害と仕事の難度に不安で不自由さと能力とセンスの無さを嘆きながら、いつも安らぎと新鮮な美しさと極められたエッジの先端に宿る神を求め続けていましたねぇ。

だけど、それは短絡的にスピードメーターが振り切れそうなくらい飛ばしても、ルート・ワンや伊豆半島を一晩中走り回っても、モノクロのツートンカラーの車やホワイトなバイクでレッドな瞬きとスピーカーでがなられながら追い掛け回されても、人を痛めても、自分が痛め付けられても、得る事はできなかったです。

PS :

数年も貧乏生活をしているのなら、自販機で300円もする天ぷらソバは食べない。

スーパーでもカップ麺は買わないし、ファミレスへも、コンビニへも行かないし、タバコも吸わない。

酒は百薬の長だが、煙草は百害有って一利無しだろう。

それすらも贅沢と気付けずに人生を嘆く主人公は、最低野郎だ!

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