岩壁の祠へ初めて訪れたのは、小学校の高学年での遠足でした。
謂れも何も知らず分からないまま行って、祠や川で走り回って遊んで弁当を食べて帰って来ました。
二度目は金沢市で一番の魔所と知って子供達を連れて祈願に行きました。
帰りに車を運転しながら、丁度、奥の院の裏手の坂道で『そんなに強い力が有るなら、証拠を見せてみな』と、余計な事を呟いたら突然、エンジンが止まって車が停止してしまったのです。
セルモーターは回り、各ゲージは正常値で、ヒューズも全てOK、自分で点検できるところは全てチェックするけれど問題の無さに、途方に暮れる始末でした。
結局、どう仕様も無くてディーラーに連絡すると、愛車は預かり修理となってカーキャリアーに載せられて行ったのです。
修理に出した車は二週後に戻って来て調子良く走るようになったのですが、エンストした原因はメーカーでも分からなくて、エンジンのオーバーホールで正常に動いてくれたと、搬送したメカニックの担当者が言っていました。
気になる修理代は、エンジンという心臓部の故障の原因が不明だったので無償でした。
それ以後、その祟られた不気味さでずっと避けていた黒壁山だったのですが、再起を賭けた一身上の都合で再び友人と祈願に行って来ました。
今度はちゃんと薬王寺の方に御参りの仕方を教わり、参拝台帳に記帳してから神域へ入りました。
御供え物は御神酒と生卵、御賽銭を入れ、敬いの二拝の御辞儀の後、願いを聞きに来て欲しいと神呼びの三拍手(普通より一拍手多い)を打ち、そして願いを唱えから、感謝と御見送りの一拝の御辞儀をして、無事に祈願を終える事ができました。
謂れでは、中世に加賀を治める富樫氏によって金沢寺が、のちの金沢城本丸の地に建立されて、一向一揆により大阪本願寺配下の金沢御堂と姿を変え、更に前田利家が尾山城を築城する際に、三小牛の九萬坊黒壁山へ移されて、祟り多き魔所とされてしまったそうです。
その地は金沢城の南の方角で、結ぶ線状に瘤や癌の災厄と祟りの封じと、忌みを呪詛する丑の刻詣り地の猿丸太夫を祭る猿丸神社が笠舞町に在って、魔所と無縁ではないと思います。
九萬坊薬王寺の寺紋は羽団扇で神格は修験者の守護神『天狗』、その開祖は奈良時代に白山信仰を開いた修験道僧の泰澄、その役小角の弟子とされる泰澄が黒壁山で修行をしていた折りに、九万坊権現の現れたの地が奥の院を更に登った黒壁山山頂辺りだそうです。
そこへ至るには岩壁の険しい登り道と密集した藪を通り抜けなければならないので、そのハードさに、まだ行ってはいません。
九万坊は異形の天狗とされ、たぶん思うに、古代に大陸から海を越えた地とされた福井県から新潟県に辺りまでの越の国に居ついたアーリア人系の末裔の逸れ集団だったのかも知れません。
彼らは古来、金沢城地の辰巳辺りに居を構えていたのですが異形の悪鬼衆と恐れられ、祖庸調の昔に伏見川源流の黒壁の谷へ追い遣られて封じ込まれてしまい、以後、伏見川上流の地は京都の羅刹谷と同じように修羅の地として恐れられていたのでしょう。
そして、悪鬼衆が恐れられたのは人肉を好んで食べる食性だったからで、黒壁山の沢の奥には貝塚ならず人骨の塚などの彼らの暮らした跡が残っていたりするのかもと、とんでもない想像をしてしまいます。