小学校の五年生だったか、加賀の横穴式古墳群と那谷寺と片野浜の長者屋敷跡を見学する日帰りのバス遠足が有りました。
みんなで横穴を穴から穴へ駈け巡り、白き石山の岩窟を覘いたりした後に向かった片野の浜の遺跡は、その名称から時代劇で見たような寝殿造りや二の丸御殿の雅な建物跡で、さぞ豪快な豪族や海運で儲けた商人が海原を見ながら日々、贅沢三昧の宴をしていただろうと、期待にワクワクして砂浜をキュッキュッと鳴かせながら歩いて行きました。
しかし、辿り着いた長者屋敷跡は、ウネウネニョキニョキした奇怪な岩の塊で、柱の礎石や朽ちた土台の一つも無く、全くの期待外れでガッカリ感の極みでした。
ここでも男の子らしく、上の松林まで登ったり、かくれんぼに鬼ごっこやタスケで遊び回って擦り傷だらけで帰ったのを覚えています。
このガッカリ感いっぱいの岩の塊は灰緑色の軽石凝灰岩で、現在から1500万年前の第三紀中新世の中頃に噴火した海底火山の火山灰や火砕流の噴煙の堆積で形成されています。
なので、火山の噴火に巻き込まれた木々の破片や様々な種類の石片が多く混ざっていて、見た目以上に表面は粗く、触ると痛いくらいです。
噴火した頃の生物の化石も見られる長者屋敷跡は、石川県の南端の江沼砂丘片野浜に在ります。
時化る海が間近まで迫る時以外は、波打ち際から30mほどのところに、幅200m、高さ10m、奥行きは……岩塊上の松林の中にも広がっていると思うのですが、体積した砂の土壌と生い茂る樹木で確認できませんでした。
北上する討伐の平家軍が陣を敷いた場所の平陣野と、快勝の南下を続ける木曽義仲が通った北陸道浜通り道が直ぐ近くなので、奈良時代の須恵器や土師器が出土した、在ったらしき長者家が裕福に存続していれば、両軍を御もて成ししていた事でしょう。
PS1:
長者屋敷跡の周りの砂は、崩れると地層を露にする断崖のようになります。
これは地質用語のラミナといわれる最小地層筋で、普通は砂丘の風溜まりに堆積した砂塚に見られるのですが、ここでは波に運ばれて来て海風に巻き上げられた砂が長者屋敷跡の岩塊にぶつかり、降り落ちて堆積しているのです。
風が舞う気象毎にミルフィーユのような層状になっています。
また、凝灰岩は珍しい岩石ではなくて耐火性・耐震性に優れた石材として多用されています。
PS2:
長者屋敷跡にまつわる伝説
長者の名は牛首。
豪儀で侠気溢れる牛首長者は明るく爽快で、使用人や商売仲間や地元衆に慕われる楽しい人でした。
毎晩、宴会を催して賑やかに振舞っていました。
そんな牛首屋敷の近くの大沼には大蛇のような龍が孤独に棲み着いていて、寂しさに姿を淑やかな娘に変化させた龍は、夜な夜な宴へ出向いて戯れるうちに牛首と色恋沙汰になってしまい、長者屋敷で牛首に寄り添いながら楽しく幸せに暮らしました。
人と似て非なる龍の娘と暮らすようになった牛首は、それまで以上に商売が繁盛し、人付き合いも豊かになり、聡明で爽快な性格は更に逞しく豪快になって多大な人望を得ました。
繁栄が自分を優しく慕う娘だと気付いた牛首は、祝言を願って断られてしまいますが、生涯、嫁を娶らずに、泣きながら縋り付く娘に看取られるまで、終生、屋敷に住まわせて愛し続けました。
牛首の他界後に起きた戦乱で、物欲に心が歪み荒んでしまう人間達に嫌気が差し、屋敷の荒廃する様に堪えられなかった龍は、再び大沼に潜ってしまいした。
時折、乾燥して砂漠のようになった大地に降らす大雨の中を、牛首を懐かしむように一緒に暮らしていた長者屋敷跡へ、何度も、何度も、舞い降りるように飛ぶのを、長者屋敷跡の奇岩の下で雨宿りをする旅人が見掛けていましたが、それも今では、さっぱりと見る事は無くなりました。
大地の精を食べて水気を放つ龍は現在も、鴨の生け捕り猟が行われる大沼の水底深くに潜み棲み着いていて、豪儀で逞しくも優しい牛首のような人なりが来るのを待っているのかも知れません。
龍の化身の娘には脇に鱗が残っていて、上気すると暗闇や水中で怪しく光輝いていたそうな。
西暦700年代の奈良時代には、加賀の大聖寺辺りは湖沼だらけで、絶滅寸前の古生代から生き残った両生生物がいろいろ棲み着いていたかもです。
PS3:
長者屋敷跡岩塊の上の樹海について
片野海水浴場から塩屋海水浴場までの、およそ4km長の緑地帯は、砂丘を植林で森林した国有林でした。
正式名称は橋立町側の加佐の岬一帯と合わせて、『加賀海岸自然休養林』です。
緑地帯には、サイクリングロードと遊歩道が設けられています。
サイクリングロードはコンクリートタイルが敷き詰められて快適に走行できそうでしたが、飛び砂と樹木に埋もれかけた遊歩道は、寂しくて心細い状態になっています。
サイクリングロードの片野側起点は、車輌の侵入防止を兼ねた階段になっています。
(塩屋側起点は未確認)
自然休養林とは、国民の健康保全と休養の為に指定した開放されている国有林です。
自然休養林内では森林保護の為、指定場所以外での焚き火や炊爨、キャンプ、植物の伐採や岩石の採取は禁止されています。
長者屋敷跡岩塊の上にも堆積した砂地に育った樹木が生い茂っていました。
長者屋敷跡上へ至るサイクリングロードや遊歩道から見る限りでは、軽石凝灰岩の露頭は見付かりませんでした。
片野側起点から長者屋敷跡上までは、考えていたよりも距離が有って、途中のサイクリングロードの休息場所から感を頼りに遊歩道を進み、道が無くなっても藪を分け入って、どうにか辿り着けました。
(長者屋敷跡方向とか、案内表示は無くて、方向感覚が鈍いと迷子になりそうな樹海です)
真冬(1月31日)の荒波が長者屋敷跡間際まで寄せているのを見て、十数年前の冬に来て砂浜を歩いた時も同じような状態に、長者屋敷跡へ近付き難かったのを思い出しました。
ですが、夏の砂浜でも小学生の頃に比べて、ずっと狭くなったと思います。
2018年8月初め、今年の砂浜は、高温続きの気象状態で膨張する海水が海面を上昇させたのか、潮の流速が増して砂浜を流失させているのか、夏場でも冬場のように長者屋敷跡の間際まで波が寄せています。
PS 3:
石川県は、石の川と書きます……。
1871年(明治4年)の地方の個別統治から中央行政下の統治に一元化する廃藩置県により、県庁は金沢に置かれて、県名は金沢県になりました。
翌1872年に県庁が金沢から石川郡の美川へ移されて、県名は県庁所在地の地域名から石川県と改名されました。
其の翌年の1873年に、再び、県庁が金沢へ戻る事になりましたが、石川県の県名は其(そ)の儘(まま)でした。
其の後は現在(令和元年)に至るまで、県庁所在地は金沢市、県名は石川県で、変わってはいません。
石川郡は、当時は暴れ川であった一級河川の手取川の扇状地で、上流の白山山麓から流れに運ばれて来た石が覆っている土地でした。
石川は、濁流に大きな石がゴロゴロと沢山転がって来る川という以外にも、雨の降らない期間は酷く乾燥して、水の流れの無い川床にゴロゴロと大小の石が見えている、旱魃(かんばつ)に因る飢饉が多い地域という意味を含んでいるのかも知れません。
春先に雨が降れば、天地を引っ繰り返したような土砂降りの豪雨で、忽ち水無し川は急流の大河となって扇状地の僅かでも低い場所を求めて蛇行し、氾濫して湖沼のようにして行くのでした。
氾濫で一帯は大洪水となり、苦労して耕した田畑の薄い表土は流されて、雪解け水も加わった山麓からの土石流が石だらけにしてしまいます。
肥えた土は石の隙間に有るだけです。
雨が上がると、急いで水を捌かせて中小の石を除き、集めた土を耕して苗を植えました。
除く石は野良仕事の合間に集落へ運び、土地を嵩上(かさあ)げして広げれば、洪水では島になって溺死から逃れる事ができました。
夏日には水平線上に湧き立つ積乱雲が来てくれれば良いですが、洋上で消滅する日が続けば、稲は痩せ衰えて実が付かなくなってしまいます。
川は干上がって枯山水の如く、集落に掘られた細い井戸も水位が下がって離れた田への余裕は有りません。
更に、炎天が続けば、集落周辺の作物どころか、飲み水も得られなくなり、餓死者続出の大飢饉が発生して仕舞います。
今日、灌漑用水が整備されて、治山治水は安定していますが、以前は、小さな氾濫と程好い日照と降雨なら実り豊かな秋でしたが、10数年毎の極端な暖冬からの豪雨と冷夏の旱魃に因る飢饉が発生し易い、現在よりも寒冷な気候の地域で、先人達は非常に苦労していた事でしょう。