遥乃陽 diary

日々のモノトニィとバラエティ 『遥乃陽 diary』の他に『遥乃陽 blog 』と『遥乃陽 novels 』も有ります

世の中は感動と憂いに満ちている。シックスセンスが欲しい!

いちご同盟 15歳で心中したい想いとは……

アニメ『四月は君の嘘』を繰り返し観て、コミック全巻を何度も読み、『小説 四月は君の嘘 6人のエチュード』も読みました。

そして、『いちご同盟/三田誠広 1990年初版』を繰り返し読み続けています。

最初にアニメ『四月は君の嘘』に出会えたのは、とても嬉しく思います。

故に『いちご同盟』を読み終えて、得た感動に自分は幸せだと感じています。

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『四月は君の嘘』では、入院したヒロインへ嘘カレが学校の図書館で借りて持って来た本の中に、『いちご同盟』の文庫本が有りました。

男子の心情を綴る一文は国語の教材に使われていて、中学校の図書館に置かれていても不思議ではない『いちご同盟』の貸し出しカードの名前欄には主人公の名が有りました。

一人でヒロインの病室へ来て、御見舞いの言葉に躊躇い、黙り続ける主人公をヒロインは、『いちご同盟』の言葉を使って迫ります。

ヒロインのベッドの傍らの車椅子に置かれた『いちご同盟』の文庫本。

「あなたって、ほんとうに変な人」

主人公の察しを知りつつも、

「病院に御見舞いに来たのに、ずうっと黙り込んでいるんですもの」

陰鬱な態度を責める言葉の後、

「あたしと心中しない?」

ヒロインは思い詰めた深刻な表情で真剣に誘います。

不治の病と幾許も無い余命を自覚するヒロインの思い詰めた言葉で、見舞いへ行くのを躊躇って間隔を空けた主人公に、

「もう来ないかと思ったわ」

ヒロインは『いちご同盟』のセリフで皮肉って、ダークに気持ちを探ります。

悪化する不治の病で死を覚悟した大好きな女子から、人生の終焉を一緒に願われるような予期しない突然の言葉と、そのイジけた投げ遣りさに、ピアニストの主人公も『いちご同盟』の内容から、

「君は王女様じゃないよ」

「僕はラヴェルなんて絶対弾かない」

『生きて!』、『諦めないで!』、『アゲイン!』の意味を込めて真摯に言い返します。

そして、自由にならない身体と儚い命の絶望に打ちひしがれていたヴァリオリニストのヒロインは、

「未練が生まれたのは、君のせいだ」

『生きて、再び彼と協奏を』と、心を奮い立たせます。

 

『四月は君の嘘』にリスペクトされた『いちご同盟』では、好きになる気持ちを隠して黙り込む良一に直美が涙目で笑いながら、

「あなたって、ほんとに変な人」

涙が零れて、

「だって、病院にお見舞いにきたのに、ずうっと黙り込んでいるんですもの」

意地悪い目付きの泣き笑い顔で会話を紡いで行き、そして、

「あなたに会いたかったの」

切実な想いを吐露すると、自殺を考える良一に身を寄せて、深刻な現実にケリをつける言葉を真剣に囁きます。

「あたしと、心中しない?」

文章はここで区切られて、直美の覚悟の言葉への良一の反応と直美の続く言葉が綴られていませんが、次章から良一の気持ちが逃げているのが伝わります。

良一が見舞いに来るのを待っていた直美は、挑むような眼差しで、

「もう来ないかと思ったわ」

病室へ来た『心中』と望む自殺の不吉さと理想の無さで迷う良一に、鋭く言い放っています。

知っているのに知らないフリをして相手を量る姑息さが、気丈夫に見せる直美に有りました。

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『四月は君の嘘』と『いちご同盟』の二人のヒロインは、幾許も無い余命を生き抜く覚悟と、絶望に自ら命を絶つ覚悟の両方が有りますが、どちらも一人では怖いのです。

そのヒロイン達の目に映る好きな主人公達には、ヒロインと一緒に飛ぶ覚悟が有ったのだろうか?

自殺願望を持っていたのに即答できず、その後日に告白して直美の想いを知っても、形振り構わずに直美に『生きろ』と励まさない良一は、片方の肺を切除して、やっと生きている辛い状態の直美に

「どこへも行かないでくれ」

こんなタイミングを失した事を言う残念なヘタレで、

「あなたのそばにいるわ」

直美は、今生の別れの言葉を返してしまう。

(直美には、「あたしと心中……」ではなくて、「一緒に来てくれる?」って訊いて欲しかったな。そして、黙り込む良一に「嘘よ」と、笑わない顔で続けて、「あなたのそばにいるわ」と、気丈夫に言って貰いたかったです)

 

飛んで自ら命を絶った小学五年生の『ばかやろう』に感化された良一の自殺願望は、自殺への短絡的で中途半端な憧れでしか有りませんでした。

 

なぜ、幼稚園から直美と幼馴染で兄妹のように親しい徹也は、良一を病室へ連れて行って直美に会わせたのだろう?

野球部で活躍する徹也の姿を見たかっただけの直美は、突然の良一の来訪をどう考えたのだろう?

片足を失って入院する直美は、徹也に良一を連れて来て欲しくなかっただろうと思う。

直美は病室のベッドで寝ている姿も、片足を失った姿も、理由も、良一に見られたくも、知られたくもなかっただろう。

『もう来ないで』、『こんな、あたしでも』、そんな痛々しい気丈夫さで脚部を隠していた毛布を除けた直美は、どんなに辛い気持ちになっていた事でしょう。

掛け替えの無い直美の生死を左右する手術が済むのを待つ間に、カツ丼を病院の食堂で食べる食欲を、『仕方が無い』と言い訳しながら漠然と反省しつつも、その直後に待合室で良一と相撲を取るのはどうだろう?

徹也と良一の、不安、切迫、想い、遣り切れなさ、もどかしさ、を現す行動に、いくら十四歳か、十五歳でも、相撲はないだろう。

状況と場所を弁えない相撲は、独善的で逞しい十五歳の徹也の短絡さと幼さをイメージさせて、切ない嘆かわしさと悲しみを感じさせたかったのだろうか?

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高校生の頃、少年マガジンに『愛と誠』の漫画が連載されていて、そのヒロインへの想いを綴ったサブキャラの手紙に「君の為なら死ねる」の誓い文字が有り、私は片想いの女子の為に、そんな事をできるシリアスに遭遇するチャンスが有れば良いと考えていました。

 

『四月は君の嘘』と『いちご同盟』のヒロインの気持ちは、少しだけ解ります。

十六歳、高校二年生の初夏に私は、中枢神経麻痺による左下肢の進行性内翻足と不随運動を発病しました。

不随運動を伴いながら徐々に悪化して行く内翻足は、脳が覚醒している間は、筋肉に力が入りっぱなしで痛み、下がる爪先に握り続ける足指と接地しない足裏が歩行を困難にしました。

原因は分からず、治療薬も無くて、左足全体の神経ブロックを相談した静岡市の済生会病院で二度の筋肉移行手術を受けて、筋肉の力量バランスで戻して進行を止める事は出来ましたが、自分の意思で動かせない爪先と不随運動は今も同じです。

幸いにヒロイン達のような、片足を失ったり、両足を全く動かせなくなったりしていませんし、死に至る事も無い症状ですが、筋肉移行手術を知る前までは、これは罰で贖罪だと、随分悩みました。

 

入院しているヒロイン達の気持ちは、十四歳の中学二年の晩春に急性骨髄性白血病を患った息子なら感じていたと思います。

息子の不安で辛い一年近くの入院は、最善の治療と懸命な努力に多くの願いや祈り、そして100%適合した娘の骨髄の移植によって、生還に至る事ができました。

あれから、十五年を経た現在は放射線技師として元気に働いています。

 

直美の病気については、多聞に年間150人ほどが発病して、十代の思春期の少年少女が患い易い、骨の癌と呼ばれる『骨肉腫』ではないかと考えます。

『いちご同盟』が執筆された1990年代は、現在の様な四肢の部位を欠損させる事なく、患部の骨髄だけを処置する術式や転移後の放射線や化学治療は、開発途上で問題が多く、試される段階ではありませんでした。

片足を大腿部から切断したのは、膝関節に近い大腿骨部に腫瘍が有ったからでしょう。

また腫瘍が転移した片方の肺を全て切除したのは、片足の切断術後の一年を経たずに肺へ転移して、それが片肺の広い範囲だったと考えます。

悪性腫瘍で片足を切断してから肺にも腫瘍が有ると知らされるまで、直美は自分の未来を悲観していなくて人生に希望を抱いていた事でしょう。

病名や病状や余命を直美に告知しているのか分かりませんが、告知されていなくても腫瘍を除くのに片肺を失うしかないと自覚した時に、片肺を失くした後も腫瘍の転移は続いて、この病室のベッドで退院する事も無く、短い人生を終えるのだと悟ってしまったのでしょう。

死にたくなければ、生きたいのなら、失くしても人生に希望は有るからと諭され、元気になって欲しい、生きて欲しいと願われ、太腿から片足を切断する決意をした十四歳の直美の心は、苦しくて、悲しくて、悔しくて、その暗くて深い嘆きに叫び哭いた事でしょう。

そして、片肺も切除しなければならないと告げられた時、五感の全ての感覚が感じられないくらい絶望したでしょう。

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☆☆☆☆☆

咽喉に絡む痰に咳き込む窒息寸前の苦しみが薄れて、眠り、目覚めた時には、痛みでヒリつく首から出るパイプがベッド脇へ運ばれた人工心肺の機器に繋がれているのを見て、息が通っていない鼻腔と、声が出せない口を知ってしまう。

自分が生かされる為には、こうせざるしかないと動かせない身体を理解する十五歳になった少女は、既に残された肺にも転移が進んでいるのを悟っていたでしょう。

それは、晩期合併症の肺炎が治癒されなくて、機能を失って行く肺胞に自分の命が連れ去られるのだと。

※※※※※

麗らかな陽射しと優しい風が気持ち好い部屋で、ピアノを弾く良一の横で歌っていた。
伸ばした手を繋いだ徹也は、立って片手弾きしながら私をリードしてクルクルと回らせ、ステップを踏みながら躍り、私は窓の向こうの真っ青な蒼空と真っ白な雲を仰いでいる。

……心地良い夢を見ていた。

そんな素敵な夢を見た目覚めなのに、直ぐに私は現実に戻されてしまう。

薄暗い視界に白く濁った病室の天井が簡易クリーンルームの水滴の附着する透明膜を通して見え、それから、周囲に並んで自分を見詰める人達に気付く。

みんな見知っているはずなのに、蛍光灯の照明の光が透明膜で拡散されているのか、暈やけて顔が良く見えない。

その人達が一斉に揺れ動くけれど、声も、音も聞こえない。

徐々に夕刻のようだった明るさが、黄昏になって、それから、夜の月明かりになるみたいに暗さが増して行く。

両親と徹也と良一を眼が探すけれど、それらしい姿は星明りほどになってしまった明るさに判別ができない。

通らない息が声にさせてくれないのも忘れて名前を呼ぶけれど、口が動いているのを感じないまま、視界が真っ暗になって、起きているのか、寝ているのか、生きているのか、境目が無くなった感覚に、それすらも分からなくなった。

眠りに誘われるような感じに、『夢の続きが見れるといいな』と願いながら、意識が薄く広がって希薄で朧になって、今度こそは、二度と眼が覚めないのだと悟ってしまう。

※※※※※

直美の最期は、事情を選ばない突然の衝撃を伴う破壊音と激痛が、真っ暗で無感覚な闇になるサドンデスな死と違い、ベッドの上で安らかに眠りに就くような永眠であって欲しいと願います。

☆☆☆☆☆

深く重いテーマの悲しい結末でしたが、作者は健常者なのかな?

野球試合は臨場感が有って楽しく読めるのですが、ストーリー的にウエイトが大きくて、もっと直美の心境や良一と直美の時間を深く長くして貰いたかったですし、それに面白く楽しめたであろう長い人生の結を、平らな無感動で短縮してしまった小学五年生についての語り合いから、儚くても強く希望を導いて欲しかったですね。

また、楽曲のリズムを聞き覚えている読者にしか理解できないような、『タン、タタタ、ターン』などの擬音語を多く連ねてページ稼ぎをするような陳腐さが無く、言葉での表現は文章に重みを持たせ、曲の意味やリズムをイメージし易くて立体的に感じました。

 

PS:

違和感が有る徹也の歳に相応しく無い言い訳と、直美や直美の父の一方的に語る長いセリフに、中学生の時に見た大学紛争の報道と、共闘の言い訳的で一方通行なアジ演説の臭いがしました。

恐らく、直美の父が語る一割も理解できないであろう内容を十五歳の良一に話す事と、『私はこんなに可愛そうなの』と直美が良一に話す事は、作中へ上手く鏤めたなら、もっと、纏まったラストになったと思います。

四月は君の嘘のカヌレ・ド・ボルドー(天使の鈴)

『四月は君の嘘』のバイオリニストのヒロインが大好きで、不治の病と闘う彼女を見舞うピアニストの彼に「食べたい」とねだるのが、この『カヌレ:Cannele』です。

アニメでは第一話の初っ端の齧る場面から最終話の悲しい文面まで、何度もストーリー上のインプリンティングアイテムで登場して、どんだけスキなんだよって感じです。

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メッセージ性が強い黒猫にも丸ごと与えたりして、確かにバターやクリームは舐めるけれど、そんなに猫って甘党だっけと考えてしまいます。

それに、『拵えたパティシエやお店にいいのかよ』って思っちゃいますね。

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ちゃんとした呼び名は『カヌレ・ド・ボルドー:Cannele de Bordeaux』で、アニメを観るまで全然知らなかったです。

是非食べたいと、金沢駅前のファションビルに在るパン屋さんで早々に購入して食べちゃいました。

憧れの『カヌレ』は、外皮が硬めの、中身は軟らかめのモチモチっとした食感のビミョーな美味しさでした。

この甘味は、女子中学生に好まれているのかなぁ?

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カヌレ形という形状を型を使って焼き固める『溝付き』という意味の『カヌレ』は、フランスのボルドー地方の女子修道院で作られていた伝統的な王冠形の焼き菓子ですが、バリッ・ボリッ的な乾いた感じではなくて、外側は焦げ茶色の粘りが有る硬め、黄色い中身は切れの良い柔らかめで、しっとりとしています。

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『カヌレ・ド・ボルドー』のルーツは、赤ワインの樽に浮遊する澱(おり)を除くのに用いる卵白を取り出した鶏卵の残った卵黄を有効利用する為に、ワイン産業が盛んなフランス ボルドーのアノンシアード女子修道院で考えだされたそうです。

卵白を細かく泡立てて仕込んだ赤ワインの樽に入れると、浮遊する澱を付着させながら樽底に沈みます。

それから、澱の浮遊が希薄になった上澄みだけを別の樽で熟成させていたのです。

澱を含んだ卵白は食用にならないので葡萄畑の肥やしです。

『カヌレ』の形や大きさは、16世紀に修道女の姉妹によって棒状で作られたのが始まりだそうで、以後、菓子として、美味しさ、食べ易さ、持ち易さ、置き易さ、の試行錯誤故え、現在のデザインに固定されたのは、16世紀末から17世紀の初め頃だったらしいです

ボルドーには、1985年に郷土菓子の伝統的なカヌレを保存する製造組合が設立されています。

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外皮の艶の有る焼き色は離型剤を兼ねて型面に塗る蜜蝋(蜜蜂の六角形の巣房壁/食用で売られている蜜蜂の巣の白い部分)からなのでしょうねぇ。

中身の色合いは焼きプリンぽくて、モチモチと粘る食感は、使う小麦粉と技なのだろう。

大人味的な風味はラム酒が入る所為?

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PS1:

買って来たのをオーブンで更に外皮がカリッとするまで焼き直してから冷やすと、より美味しい食感になるのだそうですが、それって、お気に入りの洋菓子屋やパン屋で買う意味有るん?

『四月は君の嘘』のラストは、それでも協奏して、映画『ラストコンサート』のようなエンディングにして欲しかったな。

Stella isn't it. Keep it for me. And always be with you. I love you.f:id:shannon-wakky:20151205015228j:plain

PS2:
こちらは、中国全土に展開する韓国系のパン&ケーキの店で売られている『カヌレ・ド・ボルドー』です。

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形も、大きさも、見た目も、味も、触感も同じです。
違いは、触ると分かるのですが、外側に薄く蜂密が塗られていて、艶が有ります。
その分、少し甘いかも知れません。

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商品名も違います。
『カヌレ・ド・ボルドー』の名は殆ど認知されていないので、法式古典美味(フランス伝統の美味しさ)の『天使之鈴(天使の鈴)、卡娜蕾/ka・nuo・lei/カヌレ』となっています。

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確かに形は王冠よりもベルですね。
1個10元、4個纏めても38元と、しっかりした御値段ですが、損失感や味の違和感も無く美味しいです。

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この『PARIS BAGUETTE』はパンやケーキの種類が多く、そして、どれも美味しいのです。
特にカレーパンとカニパンが気に入っています。

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PS3:
そして、妻が市販の型で作る『カヌレ・ド・ボルドー』です。

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何の問題も無く、美味なのですが、『手間暇の割にアレンジできないし、味もお店以上のは、ムリ!』と、オーダーしても作ってくれなくなりました。

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労力を費やさせて申し訳無いと思うのですが、ただ作ってくれるだけで、とても嬉しいのに……、残念!

金沢キッチンでランチする? (金沢市清水町/戸室山西側の山の中)

「お昼、『金沢キッチン』に予約しておいた。そこでいいよね」

妻からランチに行くと言われて、『初耳の場所だなあ』と思いつつ、

「うん」

『彼女が選ぶ店ならハズレはないだろう』って、何も詮索せずに承諾の返事をした。

我が家のSUV車のサイドシートに乗り込み、妻の運転でリザーブした店へ向かう。

彼女はSUV車を金沢市の山側郊外に在る家から富山県との境の山地へと、金沢市街とは逆の方へ走らせて行く。

「あれ? こっちでいいの? 街の方で食べるんとちゃうの?」

彼女は俵高原で医王山へ向かう幹線道路から左へ折れて、医王ダム近くの和紙漉きの二俣集落の方へ車の進行方向を変えながら、

「さあ、どこだろう? こっちから行かないと入る坂道が分かんないんだ」

悪戯ぽく答える彼女の嬉しそうな笑顔を見ながら、『ここいらに、キッチンなんて付く洒落た店なんか在ったっけ?』と、記憶を漁りながら首を傾げてしまう。

僕は、明日に上海戻りを控えた週末のお昼時、時雨降る中を妻と戸室山の山の中へランチに行った。

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確かに表道路から『金沢キッチン』へ至る坂道は、二俣町や角間地区などの反対方向から来ると見過ごしてしまうだろう。

いや、見えていても視界内の坂上に人家は見えないし、何気に林道で上るにつれて道は細くなり、挙句には行き止まりになって、バックで戻って来なければならないと、ずっと思っていた道だった。f:id:shannon-wakky:20160529053407j:plain

坂の上り口には、『清水町』と深く刻まれた御影石の町名碑が立っている。

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「こんな処に……」

と半信半疑に不思議がる僕を乗せて、ニコニコ顔の妻が運転するSUV車は戸室の山の神様に喰われてしまいそうな坂道へ入って行く。

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タイトなヘアピンコーナーを幾つか曲がって進むと、山の斜面に10件ほどの人家が建つ『清水町』の集落に入り、それから集落を抜け、更に道を上り切った一番高い場所に、2015年の5月にオープンした『金沢キッチン』は在りました。

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建屋の外観は山の農家。

週の後半、木曜、金曜、土曜のみが、カフェの営業日。

営業時間は木曜と金曜が、AM11:30~PM15:00

土曜のみ、AM9:00~AM11:30までのモーニングが有る、AM9:00~PM16:00の営業時間になります。

ランチは予約です。

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週の前半は料理教室でカフェは営業していません。

提供される月替りのコースランチに使う野菜は、地元伝統の加賀野菜。

当然の如く、デザートは自家製。

使われる皿や器は洗練されていて、料理が際立つ。

デザートのカップは九谷焼で、同じモノが欲しい。

オープンテラスからは日本海が遠望できて、春や秋の夕陽が凄く綺麗に見えそうだ。

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食べたランチは、見た目を裏切らない美味しさで、ゆったりとした時間が優しく過ぎて行き、嬉しいサプライズに心から妻へ感謝だ。

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コースの御品書きに、ズラリと並ぶように料理の野菜は抵抗無く美味で、食べながら聞いた妻が言う『オーナーは野菜ソムリエ』を納得する。

それにグラスに注がれた水も、戸室石の岩盤で浄化された井戸水なのか、サラサラとスッキリした後味で、とても美味しい。

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月替りのコースランチは、年5回の一時帰国の折に食べたいと思うけれど、食べに行く時間が有るかな?

食べれるといいな。

次の帰国は春節(旧正月)で、真冬だ。

『金沢キッチン』は雪深い冬場も営業している。

キラキラする新雪の結晶をギシギシ踏んでのモーニングもいいかも。

平日に行動できる積極的で明るいリタイアされた方には、良い隠れ家になるだろうな。

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スリッパに履き替えて入る一段上がった食事場所の板張りフロアは、玄関から通る三和土に、以前は広い土間だったと思う。

壁の梁や柱が太い。

天井は二階の床板の裏が晒しで、懐かしい感じがする。

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オーナーは、ジュニア野菜ソムリエ(ジュニアマイスター)の資格を持つ、キュートなマダム丸山。

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キッチンで調理をするムッシュー丸山もカッコイイ。

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『金沢キッチン』へ来た道を更に進むと、戸室別所や戸室新保の集落を抜けて幹線道路へ出れますが、細い農道で対向車と擦れ違う場所は少なく、曲がりや分岐も多いので奨められません。

(脱輪したら水田に転落するかも)

清水町の集落を通って『金沢キッチン』へ来られたのなら、来た道を戻られた方が賢明でしょう。

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冬場は積雪で、『金沢キッチン』より先は通れません。

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『金沢キッチン』で売られていた大きなシイタケを買ってソテーにして食べたら、これも美味だった。

もっと買えば良かったと思った。

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尚、店内の写真は許可を得て撮影しています。

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PS:

『金沢キッチン』が在る戸室山は、金沢城の石垣や石焼き芋の石や岩盤浴に使われている安山岩の戸室石の産地なので、砕石場から貰って来た赤と青の戸室石を削り、切り込み積みの石垣のミニチュアを作って、マイナスイオンを玄関先で発生させようかと以前から考えています。

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帰還 九七式中戦車(チハ車)を1975年8月に見ていた

もう随分と経ってしまいましたが、太平洋戦争のサイパン島の戦い(昭和19年/1944年6月中旬~7月初旬)で撃破され、海岸に埋められた大日本帝国陸軍の中戦車が掘り出されて日本へ運ばれました。

掘り出された戦車は2輌、その1輌が富士市の陸軍少年戦車兵学校の跡地に来たという情報を得て、当時勤めていた赤と青のツインスターの会社の有志達と見に行きました。

富士山の麓に少年戦車兵学校の地を示す碑のみが立ち、周囲も殺風景な砂利を敷いただけの跡地に、その歴戦の九七式中戦車は運ばれていました。

サイパンの砂は洗い流されていましたが、塗装の残りも無く全体が錆びたままの風雨を遮る物も無い野晒しの状態で置かれていました。

先輩の一人が持って来た清酒を撒き、有志全員で合掌した後、好き放題に触りまくっていましたね。

上に乗ったり、中へ入ったり、砲の口径や貫通痕の穴径や装甲厚を測ったり、写真を撮ったりしました。

先輩達と見に行ってモノクロの集合写真とカラーのスナップを撮ったのが、昭和50年(1975年)の8月下旬で、再び訪れて砲塔へ乗り込んだカラー写真は、昭和51年(1976年)の4月初旬です。

そして、この帰還戦車がサイパン島のタナバク港近くの海岸から少年戦車兵学校の跡地内へ運ばれて来たのは、昭和50年(1975年)の8月中旬でした。

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現在、若干の形状補修と防錆処理をされている以外は、帰還時のままの外観(各ハッチは閉じられている)で屋外展示(屋根付き)されていて、乗り込みや車体上に上がるのは禁止されていますが、撮影は自由で触れる事も可能です。

それと、当たり前のマナーとして、奉納展示されている車輌が劣化していても部品や装備などを剥がして損傷させたり、持ち帰ってはなりません。

もう1輌の靖国神社へ奉納された九七式中戦車は外観が復元されて、神社境内の祭神縁の資料を納める遊就館内に保存展示されています。

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激戦地から静岡県の兵学校跡地に戦車が帰還した御蔭で、既に1/35ミリタリーミニチュアシリーズで設計が開始されていた企画が更に正確なディティールとフォルムになって、九七式中戦車のプラモデルは昭和50年/1975年の12月初旬に発売されました。

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この少年戦車兵学校の跡地に帰還した九七式中戦車は、大日本帝国陸軍第九戦車連隊第三中隊の一輌です。

(靖国神社に奉納されたもう1輌は第九戦車連隊第五中隊の車輌で、境内の遊就館に外観が復元されて展示されています)

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第九戦車連隊の第三、第四、第五の中隊がサイパン島へ(第一と第二中隊はグアム島へ分派されています)無事に着いたのが、昭和19年(1944年)4月9日。

猛烈な艦砲射撃と空爆の後、アメリカ軍の海兵隊がサイパン島南部西側のオレアイ地区へ上陸したのが6月15日の朝。

寒い満州から常夏のサイパン島へ着任した戦車兵達は、島域訓練や防御陣地の構築が不十分の上、暑い気候に身体が馴染み切らないまま、二ヵ月後には初陣となりました。

砂浜に展開しだした上陸直後のアメリカ海兵隊へ直ちに突入した第四中隊が波打ち際まで激しく攻めて、海兵隊を海へ追い落とす寸前に大口径の艦砲射撃の反撃により、撃退されてしまいます。

艦砲射撃が止み、午後に再び展開しだした海兵隊を、第四中隊の残余が緒戦よりも激しく攻撃して浜辺まで蹂躙し、新たに投入された上陸予備大隊の海兵隊幕僚達が乗る水陸両用戦車を撃破しましたが、またもや艦砲射撃で撃退されました。

重なる深刻な損害にも拘らず、翌16日の丑三つ時に第四中隊は三叉路交差点が在るオレアイ集落まで進出した海兵隊を襲撃します。

この早朝5時頃まで三時間余り続いた夜間戦闘は、海岸沿いを三叉路付近の海兵隊指揮所に迫る勢いでしたが中隊長は戦死、更に再三の艦砲射撃によって突撃は潰えてしまいました。

15日朝から連続した三度の突撃を敢行して指揮官を失った上に、中隊戦力の14輌の戦車の内、後退して来た3輌を残して全てが撃破された第四中隊は、攻撃の続行ができなくなりました。

次なるアメリカ海兵隊への攻撃計画は、16日の日没40分前に戦車に歩兵を跨乗させた第三中隊と第五中隊が、オレアイの無線信号局へ撹乱攻撃をしながら戦果の拡大させる総攻撃を予定していました。

この攻撃計画は当初、歩兵の突撃に戦車が随伴支援するとされたが、戦車の機動に制限を枷せて奇襲性と打撃力を削いでしまう事になる為、折衷案として歩兵部隊を戦車に乗せての突撃となりました。

しかし、昼間の空襲と艦砲射撃に妨げられて戦車が二列で待機する攻撃発起地点へ歩兵部隊の到着がおくれ、総攻撃の開始は17日の深夜午前2時半と、大幅に遅れます。

太平洋戦線でアメリカ海兵隊が受けた最初の大きな戦車攻撃になったこの夜間戦闘は、16日早朝5時頃の第四中隊の攻撃頓挫から総攻撃が開始された17日の丑三つ時過ぎまでの約20時間余りの間に、海兵隊は陣地を構築して防御体制を整えさせ、バズーカや37mm対戦車砲の配備を終え、更に75mm砲搭載のハーフトラックやM4中戦車の揚陸を早めて日本軍の攻撃を待ち受けていたところへの、致命的な戦車部隊の突撃となってしまいました。

そして、発起された夜襲は増強された海兵隊の火力に加えて、各種地上火砲が打ち上げる照明弾と、沖合いの戦艦が放ち続ける大型照明弾のスターフレアの輝きによる真昼のような状況に、夜戦の撹乱的効果は全く望められなくなります。

それでも、地形的制限から二列縦隊の魚骨戦法で進撃した第四中隊の残存車輌を含めた第三中隊と第五中隊の合計31輌の戦車は、攻撃主体の陸軍第四十三師団の歩兵部隊と共に4時間近く戦い、アメリカ海兵隊をススペ地区の海岸まで圧迫しましたが、激しい戦力の消耗によって橋頭堡撃滅まで戦闘を続行できず、戻った1輌以外、出撃した戦車は全滅したのです。

靖国神社と富士市の陸軍少年戦車兵学校の跡地に創建された若獅子神社へ奉納された九七式中戦車は、この昭和19年(1944年)6月17日未明に発起された総攻撃の戦闘で撃破された車輌です。

若獅子神社へ奉納された車両は、発見当初、内部に二振の日本刀と砲手を担当していた軍曹の遺骨がのこされていました。

サイパン島へ上陸したアメリカ海兵隊への緒戦の戦車攻撃は、3中隊が全滅する激しい水際撃滅戦でもアメリカ軍を撃退して沖へ追い返す事はできませんでしたが、アメリカ軍に予備兵力の陸軍第二十七師団を投入させてグアム島への上陸作戦を1ヶ月以上遅らせ、グアム島の日本軍守備隊に防御を縦深配置に強化する時間と水際撃滅の作戦要綱を内陸撃滅へ変更する考察を与えました。

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1939年(昭和14年)8月1日に設立され、満州国南部の鉄嶺地区に駐屯していた戦車第九連隊には、多くの陸軍少年戦車兵学校の卒業生が配属されていました。

戦車第九連隊がマリアナ諸島へ移動した時に、昭和17年(1942年)8月に千葉市から富士宮市へ移駐された陸軍少年戦車兵学校の卒業生は何名いた事でしょう。

最後に補充されたのが、14歳から19歳で入学して2年間の育成を経た昭和18年11月卒業の第3期生なら、16から21の歳です。

最年少兵は、今の高校1年生か2年生の思春期真っ盛りの時に初めて体験する戦闘が、今日は勝てて生き残っても明日以降は負け続けて、逃れられない轟音と衝撃の戦闘へ臨む絶望と恐怖の中、この瞬間から数日後に自分は死んでしまい、到底生き残る望みの無い事を悟るのです。

現在なら死の恐怖と報われない虚しさの葛藤に、叫び、暴れ、逃亡して抗ってしまいますが、当時の日本は全く違っていたのです。

個人個人には、それぞれの思いで困惑と焦りが有りましたが、それを己の内に秘めなくてはならない世情と教育でした。

個人の事情や人権は国家体制最優先の国情と大儀によって、無きに等しい状況でした。

これは、戦後の平和的人権最優先の教育授業を受けた戦争を知らない現世代にとっては、正に想像がつかない、実感もできない、虚しいとしか思えない人生の意味を問う非現実的な社会でしょう。

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サイパンの戦闘では、40数名の少年戦車兵が戦死しています。

この様な大東亜戦争の悲劇を繰り返さない為に、日本の国が再び軍に付属するような国政にならないよう、一部の経済支配層に操られないよう、国民は国情を監視し、政治の変化に敏感で有り続け、平和の意味を違わないように整えて行かねばならないと考えます。

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PS:

サイパン島へは、2009年2月の春節休暇に家族でバカンスに行きました。

島の南端に在るサイパン国際空港(旧アスリート飛行場)へ着陸寸前の旅客機から見た南部西岸の風景です。

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西へ突き出た地形は手前から、アギンガン岬、アフェトナ岬、ススベの市街が在るススペ岬、ガラパン市街とアメリカン メモリアル パークが在るムチョット岬で、右手の山はサイパン島最高峰のタポチョ山(標高473m)です。

1944年7月7日の未明に決行した日本軍守備隊の最後のバンザイ突撃は殲滅され、散り散りに抵抗して島の北端へ追い込まれた生き残りの将兵や在留邦人の人達も、7月9日までに掃討全滅させられてサイパン島は陥落しました。

そして、陥落から1年1ヶ月後の1945年8月15日に日本の終戦を迎えても尚、更に3か月後の11月27日の投降までゲリラ戦を続けてアメリカ軍将兵から恐れられ、映画『太平洋の奇跡 -フォックスと呼ばれた男-』のモデルになった大場栄大尉が率いる残存兵力47名の潜んでいたのは、この山の中です。

1944年6月15日にアメリカ海兵隊は、ススベ市街北端のオレアイビーチと、ススベ市街南側のチャラン・カノアからサン・アントニオへの海岸に上陸しました。

そこへタポチョ山南部の山地麓で待ち構えていた戦車隊が突入して激戦を続けました。

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ガラパン地区北部のフェリー乗り場から約15分の乗船で、周囲1.5kmのマニャガハ島へリゾートに行けます。

小さな貝殻屑や珊瑚の欠片の白い砂と椰子やガジュマルの木々で覆われた平らなマニャガハ島は、高波であっさり沈んでしまいそうな小ささですが、島内のガジュマル(別名バンヤンツリー/多幸の樹/精霊の宿る木)の巨木前の大酋長アグルブの墓が在る神聖な島です。

紀元前1500年頃からチャモロ族が住んでいたサイパン島は、1565年から1898年にドイツの統治に変わるまでマリアナ諸島を支配したスペインが、チャモロ族をグアム島へ強制移住させて無人島にしました。そこへカロリン諸島のサタワル島からアグルブに率いられたカロリニアン族が1815年に移り住み、帰島して来たチャモロ族と共に現在も共存しています。

マニャガハの島名はカロリン語の『一休み』で、辿り着いたカロリニアン族がサイパン本島へ移る前に休息をしました。

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流刑地にしていたドイツに変わって1920年から統治を行った日本は、南洋庁サイパン支庁が置かれたガラパンの街の沖に在る神聖な島を戦略的防衛拠点として、1944年まで水上機基地と要塞を構築していました。

地図に軍艦島と記載されるくらいに多くの砲台や掩蔽壕が造られて要塞化したのですが、サイパン島陥落後の1944年7月13日、既に空爆と艦砲との撃ち合いで、その多くが破壊されて守備兵も減少した壊滅状態の小さな軍艦島は、上陸したアメリカ軍が1時間足らずで占領しています。

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現在もマニャガハ島には、鉄筋がたくさん入った強固なコンクリート製のトーチカの砲台跡や大砲の錆びて朽ちた砲身が多く残っています。

桟橋脇の海中に沈む上陸用舟艇みたいな錆びた遺物は、軍艦島当時に使われた桟橋です。

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1944年6月19日にトラック島へ移送するはずの九五式軽戦車10輌が、ガラパンの町に残されているのを知った第九戦車連隊の残余は、直ちに接収を行って稼動した9輌で中隊を編成し、翌20日の午前深夜にサイパン島南部東岸のラウラウ湾沿いに北上するアメリカ軍をツツーラン地区で、全速力の猛襲を仕掛けますが、17日のススペ地区と同じく圧倒的なアメリカ軍の防御火力によって全車が撃破されてしまいました。

たぶん、そのツツーラン地区で撃破された1輌と思われる、この九五式軽戦車のようにリゾートの島サイパンには、多くの太平洋戦争中の遺痕や遺物が時の流れと風雨に晒されて朽ち果てるままに展示されています。

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戦争の悲惨さや空虚さを知らしめるには、奉納して奉り、御神体の如く撮影や触るのを禁じるよりも、触れて乗り込んだり、自由に写真に撮ったりできる、朽ち果てるに任せる展示は、何気に人の心に反戦と平和を刷り込む気がします。

技術の進歩経緯の復元展示の保管と、平和を願う鎮魂をサイパン島のような展示にして明確に分けるべきなのかも知れませんね。

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マリアナ諸島の島々に分派された戦車第九連隊の人員746名中、終戦伝達によって帰還したのは僅か21名だけでした。

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サイパン空港への進入コースの旅客機から見たサイパン島の南方に隣接するテニアン島です。

飛行機はテニアン島北端の牛岬上空を通るコースで着陸します。

緑の島を真っ直ぐ通る広い道路は、島全体がアメリカ空軍の基地だった時にブロードウェイと呼ばれた北南縦貫道なのでしょうか?

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南側には、マサログ岬と1944年8月3日の最期の防衛拠点になったカロリナス高地が見え、更に南方海上彼方に無人島のアギガン島が薄っすらと見えています。

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あの『倒福』マークを貼ったハッピータイガーが逆襲の上陸をするのは、カロリナス高地右側手前の湾だったかな。

板ヶ谷町八幡神社のスギ(金沢市板ヶ谷町)

金沢市内から県道10号線を山間の湯涌温泉へ向けて進みますが、湯涌温泉には至らずに上流の橋を渡り、大杉少彦名神社や浅の川温泉『湯楽』を過ぎて板ヶ谷集落の湯涌板ヶ谷温泉『山下屋銭がめ』前まで行くと、その道路向かいの山際に板ヶ谷八幡神社が在り、神社の鳥居正面左脇に四株が合体した杉の巨木『八幡スギ』が聳え立っています。

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境内には他に二株の大杉が植わっていて、いずれも神木とされ、合体杉と共に樹齢八百年、樹高が38m、四つに幹分かれしたようにも見える四株の合体杉の幹周りは11.6mと、合体大杉脇の立て札に記されています。f:id:shannon-wakky:20150828071625j:plainf:id:shannon-wakky:20150828071638j:plain

神木の三株の大杉は金沢市指定天然記念物になっています。

他にも三本の杉と太い銀杏の木が植わっています。f:id:shannon-wakky:20150828071656j:plain

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鳥居へ近付くにつれて圧倒される合体杉の大きさは、否応に畏敬の念を抱いてしまいます。

鳥居を潜って境内に入ると、其処は真っ直ぐに伸びる太い杉の幹と頭上を覆う杉の枝振りが鬱蒼として、まるで異世界へ誘う異空間のようで、その不思議な感じは背中に戦慄を走らせました。

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社裏の白いコンクリート壁は、2008年の土石流被害で改修された板ヶ谷3号防砂堰堤です。

八幡神社の社奥に鎮守の杜は無く、祀るのは背後の狭隘な二つの渓流と急峻な三つの山並みなので、山と沢の気を鎮める治山治水の神社なのです。

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神社前の道路を更に山奥へと進むと、砕石場と横谷集落を過ぎて富山県境の刀利峠へ出ます。

ここを左へ折れると横谷峠を越えて富山県小矢部市福光町へ至り、峠を下れば刀利ダムへ行けます。f:id:shannon-wakky:20150828072500j:plainf:id:shannon-wakky:20150828072800j:plain

ダムを渡って左へ向かうと小矢部川沿いに福光町へ、右のダム脇の岩盤を潜るトンネルを抜ければ、ダム湖沿いを通ってブナオ峠を越え、富山県五箇山の合掌集落に至ります。

この五箇山へ至る道は、刀利ダムの建設に伴って造られた道路で、以前はダム湖に水没した道しか在りませんでした。

灌漑用と洪水調整および水力発電を目的に1967年に農林省が建設したドーム型アーチ式の刀利ダムによって、下刀利と上刀利と瀧谷の3村は水深50mのダム底に水没し、源流域の水没を免れた中河内と下小屋の2村も無人となって荒廃しました。

小矢部川源流の周囲を急勾配の山で囲まれる刀利の地は、刀利ダムが建設された『のぞき』と言われた川の両側に切り立つ岩盤で狭められた急峻な渓流によって、外界から隔離された秘境でした。

集落地は平坦で耕地も広く、林業と製炭も盛んで人々の営みは秘境地ながら比較的裕福だったようです。

刀利地区は加賀藩の戦略的重要地帯の一部でしたが、ブナオ峠越えの街道は加賀の金沢地域や越中の高岡地域と尾張を往来する最短コースで人の往来が多く、倉谷、刀利、湯涌の各地区には戦国期から藩政期まで遊郭を運営していた集落も在り、かなりの賑わいだったと伝えられています。

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水没した集落の神社には縄文時代の物らしい石棒が祀られていたそうなので、越国(こしのくに)の古から人が住まうに適した地だったのでしょう。

縄文の古代から平安期まで採石や採鉱で、鎌倉期から藩政初期まで金の採掘に絡んで、戦国期後半から藩政期は塩硝の運搬路と尾張への街道として刀利地区は栄えていました。

中世以降、犀川源流の倉谷鉱山地区と塩硝生産の五箇山地域に物流交易筋の刀利地区と湯涌地区は、金と火薬を生産する最重要の戦略地帯だったのです。

最重要地帯内の各集落を結ぶ間道は縦横に張り巡らされ、物流や交流は頻繁でした。

厳重に外界からの往来と交流を管理・監視した多くの城や砦の跡が塩硝街道沿いに存在します。

板ヶ谷の八幡神社が造営される以前、この地に関所と陣屋が在り、刀利地区と湯涌地区を往来する人達を厳しく吟味していた事でしょう。f:id:shannon-wakky:20150828072629j:plain

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加賀藩直轄事業の塩硝(加賀藩表記/煙硝)密造について:

五箇山地域で独自の培養方法にて製造された塩硝を金沢市郊外の湯涌街道と倉谷街道が最接近する土清水村の塩硝蔵(涌波一丁目)へ運び、立山の硫黄とハンノキの木炭粉と混ぜ合わせて合薬精製され、加賀藩の重要な軍事物資で外貨収入を得る経済的な専売商品の良質な黒色火薬にされました。

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神木の杉は治水で植えられたのか、自然と芽吹いたのか分かりませんが、芽吹いた鎌倉期の始まりから現在まで800年、更にあと2000年は育って、人の100歳くらいの樹齢まで枯れないなら、大杉の1秒は人の30秒くらいで、人の30年は大杉の1年という感覚なのかも知れず、それに地下に広がる根で神木達はコミュニケートして境内にいる私を認識しているのかもと、空の光を遮る神秘的な大杉の枝振りを見上げながら考えていました。

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板ヶ谷防砂堰の全壊:

八幡神社の背後に有る砂防堰は2008年(平成20年)7月28日の朝に堰面を越えての土石流により破損しました。

1時間に138mmもの極めて激しい豪雨量によって二つの急峻な奥谷から発生した土石流は、既に土砂で満杯状態の板が谷1号堰堤を容易く超えて排水路を埋め尽くして溢れながら板ヶ谷川へ流れ落ち、ほぼ同時刻に板ヶ谷川源流沢で発生した土石流は、少し上流地の板ヶ谷川と県境の山間からの横谷川が合流する砕石場脇に在る板ヶ谷2号堰堤を削るように全壊させていました。

この二つの土石流の流入により、板ヶ谷川の水位は一気に増加します。

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危険域に増水した水位は津波のように医王山川との合流部を浚い、浅野川(湯の川)に合流直後の湯涌保育園横の堤防を押し流して一帯を冠水させました。

その頃、浅野川上流の玉泉湖の排水路が道路面を押し上げるほどに流木類が塞いでしまった為、玉泉湖は氾濫して湯涌温泉街を泥水で溢れさせていました。

急激に増加した水位は湯涌街道沿いの流域の田畑や護岸提を抉り、金沢市内の天神橋付近の氾濫危険水位を1m30cmもオーバーして護岸を超えた濁流は、天神橋から下流のJR北陸線辺りまでの広範囲な市街地に浸水被害を与えました。

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天神橋の水位が危険域に達する前に、小立野台地を潜るトンネル放水路で浅野川から犀川への分流が行われましたが、犀川も市街地で避難判断水位を上回ってしまい、浅野川からの放水量の制限に至りました。

板ヶ谷集落の家屋は、流失全壊は町内会長宅の1軒だけでしたが、半壊が2軒、そして殆どの家屋が浸水と土砂の流入の被害に遭っています。

早朝から雨量と板ヶ谷川の流量の異変に気付いた住民達は、集落全員が協力しあって早期に高台へ避難をしていた御蔭で、人的被害は有りませんでした。

洪水被害に遭った湯涌温泉街や金沢市街地でも人的被害は有りませんでしたが、板ヶ谷の2号堰堤の全壊や土石流が大量に1号堰堤を越える事が無ければ、浅野川流域の堤防流失や金沢市街地への浸水は無かったのではないかと考えます。

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大杉が聳える板ヶ谷の八幡神社は1号堰堤の直ぐ脇に在りますが、社や境内に被害は無く、土砂が板ヶ谷集落の家屋や温泉宿の『銭がめ』を直撃せずに水路へと向かったのと、これ程の水害にも係わらず、人命を失う被害が無かった事は、八幡神社の鎮守の加護に守られたと信じたいです。

昨今、100mm越えの集中豪雨が当たり前の様になっていて、想定外では済まされない状況です。

以前の砂防ダムは1933年(昭和8年)の築造で、それまで最大の1時間77mmの雨量には耐えて来ていました。

全壊前の板ヶ谷地区の砂防堰の土砂堆積量がどのくらいだったか、浚渫が必要だったのか、堰堤壁を強化すべきだったのか、分かりませんが、想定以上の雨量でも人的被害が発生しない様に各河川上流の防災施設の補修・改修管理の徹底を願いたいです。

神は利発で良く学ぶ者を加護してくれます。

くれぐれも神木の大杉が災害によって倒れたり、流失したりしない様にして貰いたいものです。

尚、犀川には浅野川からの放水路の上流5.5kmに洪水調整目的で、高さ51mの重力式コンクリートダムの辰巳ダムが2012年(平成24年)に完成していて、浅野川の水を放水路全開で分流し続けても金沢市街地の犀川水位を危険域にしないと考えられています。

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金沢市の河川の増水被害と行政管理の人災といえば:

1991年(平成3年)9月20日(金曜日)、犀川峡金沢温泉『滝亭』横の犀川河川敷きと川原へ遠足で来ていた南小立野小学校の3年生児童118人と引率の先生方が上流の上寺津ダムの放水による水害に遭っています。

昼食を終えて休息していた午後2時頃、川原に剥き出しになっていた石が見る見る水没して行く様に、悲鳴を上げて岸へ逃れる間も無く、児童の腰まで水位は上昇しました。

リュックに水筒、靴や帽子など、持ち物の大半が流失する中、児童達は互いに手を繋いで水底の石に躓きながらも岸へ上がり、先生達は手を繋ぎ損ねて流され出す児童に駆け寄っては、両脇に抱えて救出しました。

それでも30人余りの児童と先生が中州に残され、児童の首まで迫る濁流の中、腕を組んで固まり、その上流と下流を先生が支えて守って耐えているのを、児童達の被災に気付いた滝亭や付近の人達と、通報で到着した消防レスキュー隊が救助してくれました。

少し下流には大人でも背が立たない日本神話の死神とされる瀬織津姫の澱みや、化石層を深く抉って甌穴を作るほどの急流が在る場所で、小学3年生の小柄な児童達が首までの急流に流されずに、児童118人と引率の先生方全員が生還できた事は非常に幸運な事でした。

児童達の助け合い行動、先生方の勇敢さと強い責任感、助けに来てくれた付近の人達と迅速に救助してくれたレスキュー隊に心から感謝致します。

当日のダムの放水については、学校・幼稚園・保育園・養護施設などや町内の回覧版・市の広報にも通知は無く、放水に際しては下流域のサイレン設備で警戒と退避を促しますが、実際はダムからのみで、下流域のサイレンは鳴らされていませんでした。

したがって、放水予定を知らずに低水位の川原で昼食後の休息をしていた先生方と児童達は、放水による急速な水位の上昇と濁流に呑まれそうになる被害に遭ってしまったのです。

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この遭難寸前の災難教訓は、事前通知や警戒・退避を知らせる施設や設備の保全の徹底に生かされているのでしょうか?

現在、上寺津ダムの下流4km、災害場所の天池橋付近より3km上流に更に大きな洪水調整目的の辰巳ダムが在ります。

普段は水を溜めない辰巳ダムですが、定期的な堪水試験での単位時間の放水量は上寺津ダムと変わらないと思いますが、たぶん、放水時間は長くなるでしょう。

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べちこ焼きって三色の氷室饅頭と似てるかも (海羽空市の焼き菓子と金沢市伝統の暑気払い饅頭)

先日観ていたアニメ「それでも町は廻っている」のエピソード九番地は、食べた御菓子が凄く美味しくて製造元まで買占めの大人買いに行こうとするストーリーでした。

その御菓子の名は『べちこ焼き』、カラフルな見た目で直ぐに連想したのが、湯涌温泉へ行く度に買って来ていた三色の『氷室饅頭』でした。

そっくりな外観ではないのですが、カラーリングのイメージがダブりまして、オーバーラップのトラウマを避ける為に着色画像を作ってみました。

群青色はさすがに食欲が失せそうなので、青紫にしましたが、それでも……。

ベースが饅頭なので、中身は漉し餡をやめて、しっとりクッキーの抹茶味をサンドにした焼き菓子とのハイブリッドにしてみたです。

これで一応は焼き菓子風味になると思うのですが、なんか、『べちこ焼き』っぽいよりも『秀美乱/ホビロン焼き』になってしまって、味は兎も角、全然買って貰えそうにないです。

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『べちこ焼き』の製造元は『毛利屋』です。

『毛利屋』が在る海羽空市の市外局番は047で、千葉県の大半が該当するのですが、千葉県に海羽空市は存在しません。

お気に入りの『べちこ焼き』が『毛利屋』の店仕舞いで無くなると知ったタイムリサーチャーは、大人買いした『べちこ焼き』を現在を含めた過去に配り撒いて『毛利屋』が存続してくれるかを検証した、時空干渉するシュタインズゲートみたいにタイムパラドックスな、三百年も未来のSFでした。

結果は大人気になって多くの菓子メーカーが製造していました。

『べちこ焼き』は大人気に化けていましたが、過去から派生する様々な事柄は重大なバタフライ効果の結果を招いていそうな気がします。

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それ故に、『風ヶ丘飛鳥』先生の奇想天外ミステリー小説、『シャッフル都市』を文庫本で読んでみたくなりましたね。

あと、『門石梅和』先生の荒唐無稽小説、『雲丹飛行船』も。

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PS:

氷室饅頭:

金沢市では加賀藩の頃から、陰暦六月一日を氷室(ひむろ)の朔日(ついたち)と言い、『氷室饅頭』を食べる風習が有ります。

この『氷室饅頭』の起こりは、加賀藩藩主の前田家が天正12年6月朔日(1584年7月1日)に金沢城内で

京都宮中の賜氷の節に倣って始めた吉例のお祝いの氷の催しの雪を模して、享保年間(1716年~1724年)に片町の生菓子屋、道願屋彦兵衛が創案したされています。

吉例とは陰暦六月朔日で、夏の正月の事です。

新しい年を迎えた元旦の冬の正月に、前半を無事に過ごせた感謝と後半の平安と稔りを願う夏の正月。

暑気を払い、気持ちを新たにする後半へのリセットで、スターティング・オーヴァーです。

冬に雪の下で過ごした麦を用いる氷室饅頭は夏負けしない無病息災を願う縁起もので、初めは萬/万人の頭へ出世するという意味も込めて、「氷室萬頭」として売り出されたそうです。

暑気当たりを防ぐ願掛けに食べる氷室饅頭は、当初は献上する雪の白さに擬えた白色だけでしたが、今は花見団子と同じような彩りの三色を拵えている老舗も在ります。

蒸しても余りふっくらとしない麦饅頭だった氷室饅頭は現在、酒種を入れて、薄皮でふっくらしてモチモチと香り良く、劣化が遅い酒饅頭になりました。

丸い饅頭の形も配膳に盛られた祝いの氷を模していると考えます。

献上氷の道中の無事を祈願して初夏に神社へ奉納する雪盛りは、形が定まらないまま直ぐに融けてしまうでしょうし、まさか、茶碗に白米や掻き氷のように盛られてはいなかったでしょう。

取り出した雪の状態は、夏でも高山の林道の沢陰に砂礫や枯葉まみれで残っている万年雪に近いですが、もっと、一度融け掛けて再び固まった真冬の屋根雪のようで、綺麗な白さです。

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徳川への献上氷の雪:

江戸の将軍様への献上氷については、江戸の文献で確認できる一番古い年代記録に、寛政11年(1799年)に加賀藩江戸上屋敷の氷室の雪が届けられたと有ります。

江戸の文献には加賀藩の献上氷を「六つの花(雪の結晶)、五つの花(前田家の紋章の梅の花)の御献上」など雅な川柳で、多くの記述が残っていますが、加賀藩の文献には記載が一つも有りません。

これは金沢城から氷室の雪が直接、江戸城へ届けられたのではなく、金沢と同じように六月朔日の祝いを催す江戸の加賀藩邸へ送られて、その一部を徳川へ献氷したからと考えます。

加賀藩邸の氷室は江戸に降り積もった雪を掃き集めて詰め、金沢から事前に届いた祝い用の雪を保存する

冷凍庫の役割をしていたのでしょう。

そして、六月朔日の前日辺りに献上されて江戸城の氷室へ収められたと思います。

この加賀藩邸の氷室へは、真冬の夜間に金沢から雪が運ばれたという説が有りますが、積雪する極寒の時期に日本アルプス地帯を通って行くなんて(東海道を通るにしても)、とても虚しくて無意味な気がします。

江戸屋敷の氷室を一杯にするなんて、どれだけの量を運んだんだよっていうか、運べたのかよ、ですわ。

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祝いの氷の運び屋:

氷室の雪を江戸へ運んだのは、金沢市内を流れる犀川の源流辺りに住む倉谷四ヶ村の衆でした。

そこは富山県との県境の地で、ブナオ峠を越せば五箇山の集落へ至ります。

倉谷には金山が在りました。

金、銀、銅、鉛を産出する倉谷金山は、文禄3年(1594年)から採掘が始められたと伝承記録が有りますが、古代越の国から栄えた北陸の地は、谷や沢や峰の岩石や露頭地層は全て探索し尽されて、採掘される以前から砂金採りが行われていたと推測します。

採掘量の激減で倉谷金山が正徳4年(1714年)に閉山して四ヶ村も衰亡した以降の倉谷の衆は、兼ねていた加賀藩の特殊業務に徹していたようです。

金銀の採掘で器用に坑道を掘り、金属工作をする倉谷の衆は、兵科だと工兵。

工兵を英語ではパイオニアやエンジニアと言い、その意図する所は特殊なプロの技能と技術を持つ人達が、アンダーな業務を熟す、加賀藩のお庭番で暗部だったんですね。

些細な事から外様筆頭の大大名の前田家を断絶取り潰して、所領を旗本や直参へ分け与えようと企む徳川幕府の隠密達と熾烈な闘いをしていたのかも知れません。

祝いの氷を速やかに運び、五箇山煙硝の製法を守り、金銀を採掘し、参勤交替のルートの安全の確保や、加賀藩要人の警護をする…… なんて、けっこう凄くて格好良いぞ、倉谷の百足衆です。

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雪を保存する氷室:

兼六園内にも氷室が在ったらしいとする古地図が有りますが、地形的に初夏まで雪がちゃんと保存できていたのか疑わしいですね。

もしかして、それは徳川へ献氷する真夏の雪の出所を、公儀から訊かれた時のダミー氷室なのか、城内の下級武士用だったのかも知れません。

天正12年(1584年)から金沢城玉泉院丸の南西の隅に氷室が設置された元禄5年(1692年)まで、倉谷四ヶ村が祝いの氷の献上したと記述が有りますから、山間の倉谷には氷室が有った事が分かります。

なので、後年の加賀藩江戸上屋敷へ運んだ雪は、倉谷か五箇山に設置された倉谷衆が管理する専用の氷室から切り出されたと考えられます。

運ばれる雪は長さ2m、巾1m、厚さ60cmくらいの大きさで、滅菌と保温に熊笹で幾重にも包んで桐の箱へ入れ、更に断熱と消毒にヒバの葉か、檜の鉋屑を敷き詰めた桐材の長持ちに入れてからも筵を重ね巻きして運ばれました。

三棹一組としていますから、江戸の藩邸へは徳川献上用と合わせて、少なくとも六つの桐の長持ちが送られたと思います。

発送の時期は峠の積雪が消える五月初め、江戸までの約500kmの距離は出来る限り最短で、間者と輸送の交替要員を兼ねてコース上に住み着いた倉谷衆が、整備して安全を確保した涼しい高地の日陰ばかりの道を、急ぎ24時間移動で四日間、藁束をクッションにして積まれた日除け付きの荷車を馬で引かせて行きました。

人里を離れた山間をアクシデント処理や警護や交替の要員を従えた荷車の列は、夜間に足許を照らす提灯の灯りで、遠方からは狐火の連なりのように見えた事でしょう。

氷室への雪詰めは1年の内で寒さが最も厳しい大寒の1月20日頃に降り積もった雪を使いますが、それは氷点下の寒さで雪の結晶がしっかり形成されて融け難いのと、乾燥した厳しい寒さに雑菌が混じり難いので、氷室で長期保存しても雪質が腐って黴るような事は無いからです。

フワフワサラサラの新雪を何トンも氷室へ運んで詰め固める作業を、幾人で行っていたのか分かりませんが、大変な重労働だったと思います。

冬の雪を夏まで保存する氷室は古代に大陸から伝わり、雪が積もり夏は猛暑になる地域では一般的な設備でした。

機械で製造する氷が売られ出す明治初期から廃れ始め、冷蔵庫が普及する昭和には無くなってしまいました。

それまでは、氷室の雪や氷が熱中症などの熱を冷まし、夏バテする身も心も癒していたのです。

六月朔日が過ぎると販売されて、夏の暑さに齧ったり、飲んだり、冷たさを楽しんだりと、身分に関係なく利用されていました。

雪の積もらない地方では貴重な真夏の氷でしたが、金沢では季節の風物で珍しくありませんでした。

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現在の氷室:

昭和30年代に一度途絶えました氷室は現在、湯涌温泉の年中行事の一つとして昭和61年(1986年)から復活しています。

現存して活用されているのは、日本中で湯涌温泉の観光用氷室だけらしいです。

毎年1月の最終日曜日に60トンもの雪が横4m縦6m深さ2.5mの氷室小屋の中へ入れられる雪詰めは、観光の御客さん達が大勢参加しています。
そして、6月30日に行われる氷室開きは、金沢の夏の風物詩として定着しており、大勢の観光客が訪れます。

それは藩政時代当時の衣装と作法で再現され、運び出された最初の氷の一部は献上氷室雪として地元湯涌の薬師堂へ奉納し、残りはお茶用の湯に足されて観光客に振舞われます。

(大寒の雪でも、現在は大気の状態や厳しい規制故に、そのまま食べれません)

また、加賀藩藩主だった前田家からは当主が徳川将軍家の末裔の方へ、氷室氷を贈る伝統が現在でも続いています。

(現在も陰暦の六月朔日に徳川家へ届けられている氷室氷は、湯涌の氷室からなのでしょうか? それとも前田家が何処かに保有する……)

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長者屋敷跡 不思議な形の軽石凝灰岩塊(石川県加賀市片野海岸の北端)

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小学校の五年生だったか、加賀の横穴式古墳群と那谷寺と片野浜の長者屋敷跡を見学する日帰りのバス遠足が有りました。

みんなで横穴を穴から穴へ駈け巡り、白き石山の岩窟を覘いたりした後に向かった片野の浜の遺跡は、その名称から時代劇で見たような寝殿造りや二の丸御殿の雅な建物跡で、さぞ豪快な豪族や海運で儲けた商人が海原を見ながら日々、贅沢三昧の宴をしていただろうと、期待にワクワクして砂浜をキュッキュッと鳴かせながら歩いて行きました。

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しかし、辿り着いた長者屋敷跡は、ウネウネニョキニョキした奇怪な岩の塊で、柱の礎石や朽ちた土台の一つも無く、全くの期待外れでガッカリ感の極みでした。f:id:shannon-wakky:20150418072758j:plain

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ここでも男の子らしく、上の松林まで登ったり、かくれんぼに鬼ごっこやタスケで遊び回って擦り傷だらけで帰ったのを覚えています。f:id:shannon-wakky:20150418072018j:plain

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このガッカリ感いっぱいの岩の塊は灰緑色の軽石凝灰岩で、現在から1500万年前の第三紀中新世の中頃に噴火した海底火山の火山灰や火砕流の噴煙の堆積で形成されています。

なので、火山の噴火に巻き込まれた木々の破片や様々な種類の石片が多く混ざっていて、見た目以上に表面は粗く、触ると痛いくらいです。

噴火した頃の生物の化石も見られる長者屋敷跡は、石川県の南端の江沼砂丘片野浜に在ります。f:id:shannon-wakky:20150418072933j:plain

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時化る海が間近まで迫る時以外は、波打ち際から30mほどのところに、幅200m、高さ10m、奥行きは……岩塊上の松林の中にも広がっていると思うのですが、体積した砂の土壌と生い茂る樹木で確認できませんでした。

北上する討伐の平家軍が陣を敷いた場所の平陣野と、快勝の南下を続ける木曽義仲が通った北陸道浜通り道が直ぐ近くなので、奈良時代の須恵器や土師器が出土した、在ったらしき長者家が裕福に存続していれば、両軍を御もて成ししていた事でしょう。

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PS1:

長者屋敷跡の周りの砂は、崩れると地層を露にする断崖のようになります。

これは地質用語のラミナといわれる最小地層筋で、普通は砂丘の風溜まりに堆積した砂塚に見られるのですが、ここでは波に運ばれて来て海風に巻き上げられた砂が長者屋敷跡の岩塊にぶつかり、降り落ちて堆積しているのです。

風が舞う気象毎にミルフィーユのような層状になっています。

また、凝灰岩は珍しい岩石ではなくて耐火性・耐震性に優れた石材として多用されています。

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PS2:

長者屋敷跡にまつわる伝説

長者の名は牛首。

豪儀で侠気溢れる牛首長者は明るく爽快で、使用人や商売仲間や地元衆に慕われる楽しい人でした。

毎晩、宴会を催して賑やかに振舞っていました。

そんな牛首屋敷の近くの大沼には大蛇のような龍が孤独に棲み着いていて、寂しさに姿を淑やかな娘に変化させた龍は、夜な夜な宴へ出向いて戯れるうちに牛首と色恋沙汰になってしまい、長者屋敷で牛首に寄り添いながら楽しく幸せに暮らしました。

人と似て非なる龍の娘と暮らすようになった牛首は、それまで以上に商売が繁盛し、人付き合いも豊かになり、聡明で爽快な性格は更に逞しく豪快になって多大な人望を得ました。

繁栄が自分を優しく慕う娘だと気付いた牛首は、祝言を願って断られてしまいますが、生涯、嫁を娶らずに、泣きながら縋り付く娘に看取られるまで、終生、屋敷に住まわせて愛し続けました。

牛首の他界後に起きた戦乱で、物欲に心が歪み荒んでしまう人間達に嫌気が差し、屋敷の荒廃する様に堪えられなかった龍は、再び大沼に潜ってしまいした。

時折、乾燥して砂漠のようになった大地に降らす大雨の中を、牛首を懐かしむように一緒に暮らしていた長者屋敷跡へ、何度も、何度も、舞い降りるように飛ぶのを、長者屋敷跡の奇岩の下で雨宿りをする旅人が見掛けていましたが、それも今では、さっぱりと見る事は無くなりました。

大地の精を食べて水気を放つ龍は現在も、鴨の生け捕り猟が行われる大沼の水底深くに潜み棲み着いていて、豪儀で逞しくも優しい牛首のような人なりが来るのを待っているのかも知れません。

龍の化身の娘には脇に鱗が残っていて、上気すると暗闇や水中で怪しく光輝いていたそうな。

西暦700年代の奈良時代には、加賀の大聖寺辺りは湖沼だらけで、絶滅寸前の古生代から生き残った両生生物がいろいろ棲み着いていたかもです。f:id:shannon-wakky:20150418073118j:plainf:id:shannon-wakky:20150418073132j:plain

 

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PS3:

長者屋敷跡岩塊の上の樹海について

片野海水浴場から塩屋海水浴場までの、およそ4km長の緑地帯は、砂丘を植林で森林した国有林でした。

正式名称は橋立町側の加佐の岬一帯と合わせて、『加賀海岸自然休養林』です。

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緑地帯には、サイクリングロードと遊歩道が設けられています。

サイクリングロードはコンクリートタイルが敷き詰められて快適に走行できそうでしたが、飛び砂と樹木に埋もれかけた遊歩道は、寂しくて心細い状態になっています。

サイクリングロードの片野側起点は、車輌の侵入防止を兼ねた階段になっています。

(塩屋側起点は未確認)

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自然休養林とは、国民の健康保全と休養の為に指定した開放されている国有林です。

自然休養林内では森林保護の為、指定場所以外での焚き火や炊爨、キャンプ、植物の伐採や岩石の採取は禁止されています。

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長者屋敷跡岩塊の上にも堆積した砂地に育った樹木が生い茂っていました。

長者屋敷跡上へ至るサイクリングロードや遊歩道から見る限りでは、軽石凝灰岩の露頭は見付かりませんでした。

片野側起点から長者屋敷跡上までは、考えていたよりも距離が有って、途中のサイクリングロードの休息場所から感を頼りに遊歩道を進み、道が無くなっても藪を分け入って、どうにか辿り着けました。

(長者屋敷跡方向とか、案内表示は無くて、方向感覚が鈍いと迷子になりそうな樹海です)

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真冬(1月31日)の荒波が長者屋敷跡間際まで寄せているのを見て、十数年前の冬に来て砂浜を歩いた時も同じような状態に、長者屋敷跡へ近付き難かったのを思い出しました。

ですが、夏の砂浜でも小学生の頃に比べて、ずっと狭くなったと思います。f:id:shannon-wakky:20160305200034j:plainf:id:shannon-wakky:20160305200213j:plain

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2018年8月初め、今年の砂浜は、高温続きの気象状態で膨張する海水が海面を上昇させたのか、潮の流速が増して砂浜を流失させているのか、夏場でも冬場のように長者屋敷跡の間際まで波が寄せています。

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PS 3:
石川県は、石の川と書きます……。
1871年(明治4年)の地方の個別統治から中央行政下の統治に一元化する廃藩置県により、県庁は金沢に置かれて、県名は金沢県になりました。
翌1872年に県庁が金沢から石川郡の美川へ移されて、県名は県庁所在地の地域名から石川県と改名されました。
其の翌年の1873年に、再び、県庁が金沢へ戻る事になりましたが、石川県の県名は其(そ)の儘(まま)でした。
其の後は現在(令和元年)に至るまで、県庁所在地は金沢市、県名は石川県で、変わってはいません。
石川郡は、当時は暴れ川であった一級河川の手取川の扇状地で、上流の白山山麓から流れに運ばれて来た石が覆っている土地でした。
石川は、濁流に大きな石がゴロゴロと沢山転がって来る川という以外にも、雨の降らない期間は酷く乾燥して、水の流れの無い川床にゴロゴロと大小の石が見えている、旱魃(かんばつ)に因る飢饉が多い地域という意味を含んでいるのかも知れません。
春先に雨が降れば、天地を引っ繰り返したような土砂降りの豪雨で、忽ち水無し川は急流の大河となって扇状地の僅かでも低い場所を求めて蛇行し、氾濫して湖沼のようにして行くのでした。
氾濫で一帯は大洪水となり、苦労して耕した田畑の薄い表土は流されて、雪解け水も加わった山麓からの土石流が石だらけにしてしまいます。
肥えた土は石の隙間に有るだけです。
雨が上がると、急いで水を捌かせて中小の石を除き、集めた土を耕して苗を植えました。
除く石は野良仕事の合間に集落へ運び、土地を嵩上(かさあ)げして広げれば、洪水では島になって溺死から逃れる事ができました。
夏日には水平線上に湧き立つ積乱雲が来てくれれば良いですが、洋上で消滅する日が続けば、稲は痩せ衰えて実が付かなくなってしまいます。
川は干上がって枯山水の如く、集落に掘られた細い井戸も水位が下がって離れた田への余裕は有りません。
更に、炎天が続けば、集落周辺の作物どころか、飲み水も得られなくなり、餓死者続出の大飢饉が発生して仕舞います。
今日、灌漑用水が整備されて、治山治水は安定していますが、以前は、小さな氾濫と程好い日照と降雨なら実り豊かな秋でしたが、10数年毎の極端な暖冬からの豪雨と冷夏の旱魃に因る飢饉が発生し易い、現在よりも寒冷な気候の地域で、先人達は非常に苦労していた事でしょう。